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「お早うございます。」

元気の良い張りのある声と共に若い看護婦が部屋に入って来た。

「ご気分はいかがですか。検温の時間ですからお願いします。」

看護婦に体温計を差し出されて自分が病院にいることを思い出した。まだ覚めきらない目で若い看護婦の顔を眺めながら体温計を受け取って自分の脇の下に差し込んだ。

「検温が済んだら朝食を持って来ますから。他に何か御用はありますか。秋本先生からよくお世話するようにと言われてますから用事があったら何でも言ってくださいね。」

 看護婦は検温の終わった体温計を受け取るとそこに刻まれた数値を確認して記入してから部屋を出て行った。僕は洗面を済ますと起き上がって食事を待った。特に食欲があるわけではなかったが身についた習慣は変わらなかった。しばらく待つとまた「失礼します。」という張りのある声が響いてさっきの若い看護婦が食事を持って部屋に入って来た。

「さあ、どうぞ。お待たせしました。」

看護婦はテーブルに食事を置くと脇に置いてある椅子に腰を下ろした。

「どうしたの。忙しいんじゃないの。大丈夫なの。こんな所にいて。」

看護婦は少し恥ずかしいのか下を向いて笑いながら僕に答えた。

「秋本先生に食事の間話し相手になっていなさいってそう言われたんです。」

「秋本がそう言ったの。気を使ってるんだな、あいつも。ところであなたの名前は。何と言うの。」

 看護婦は相変わらず恥ずかしそうな素振りで「白石真由美です。」と答えた。その時僕はこの若い看護婦が下を向いているのは恥ずかしいのではなくて僕のことを気遣っているのではないかと思いついた。

「病気のことなら気にしなくていいよ。仕方のないことだから。」

看護婦は顔を上げた。目には涙を溜めていた。

「何故泣くんだ。僕のことは仕方のないことだ。怖くないと言ったら嘘になるけれどそれなりに覚悟は出来てる。」

 覚悟が出来ているというのが本当なのかどうか自分にもよく分からなかったが、取り敢えずそうとでも言っておく他はないと思った。

「それだけじゃないんです。患者さん、森村さんでしょう。あなたって気の毒な人、私、見たんです。秋本先生と森村という綺麗な女の人が先生の部屋で抱き合ってるのを。こんな時に裏切るなんてあなたが本当に気の毒で。」

 そこまで言うと看護婦は部屋を駆け出して行った。後には手を付けていない朝食が残された。僕はミルクを一口飲んでみた。特に吐き気もなさそうだった。そのまま全部飲み干すとコーヒーに手をつけた。そしてたばこにも手を出した。

 あの白石という若い看護婦のことを考えると可笑しくもあったし、また腹立たしくもあった。妻が秋本と何をしようが今更そんなことは構わなかった。今更二人のことをとやかく言える立場でもなかったが、しかしこれが他の者だったらと思うと愚かな看護婦に腹が立った。

『それとも秋本はあの看護婦のことを知っていてわざわざ僕のところに寄越したのか。でもそのメリットは。そこまでしても僕に自分と秋絵の関係を知らせる必要があるのだろうか。』

煙草をふかしながら考えているとドアが開いて秋本が入って来た。

「白石君は、看護師はどうしたんだ。」

秋本は部屋の中を見回した。

「何処かにお出かけのようだけど。食事を持って来てそれからすぐに出て行ったよ。」

秋本は顔をしかめた。

「仕方がない子だな、どうも。悪い子じゃないんだけど責任感がないっていうのか何をさせても落ち着かないんだ。それに口が軽いし。」

 僕は秋本を見つめた。秋本はそんな僕には構わずにインターホンで白石という若い看護婦を呼んでいた。

「口が軽いのは確かなようだな。」

秋本は驚いたように振り返った。

「何か言ったのか、彼女が。」

「いや、特に何も。ただよく喋ったから口が軽いのかと思って。」

適当にごまかしてから手に持っていた煙草を消した。

「夕べはよく眠れたか。今日は午後にMRIで状態を見てみようと思う。午前中は採血くらいだからのんびりしていてくれ。そうだ、秋絵さん昼頃にここに来るそうだ。昨日夜遅く電話があった。お前のところに直接かけようとしたらしいんだが眠っているといけないと思ったそうだ。」

 秋本の言葉に僕は黙って頷いた。秋本が部屋から出て行ってしまうと僕はベッドに横になって天井を見上げた。何だか自分がドラマの主人公になったような気がした。自分が主人公なら共演は妻の秋絵と秋本で観客はあの白石という若い看護婦ということになる。

 病に冒されて余命幾許もない男の妻が、自分の親友で主治医でもある医者と不倫の関係なんて何だかそれが出来合いのドラマにしても出来過ぎのストーリーだった。そしてそのストーリーを演出してきたのが誰でもない自分自身だと思うと何故だか可笑しくなって来て独りで笑い出してしまった。

 ひとしきり笑った後で自分に残された僅かな時間をこれから何を拠り所にして死という現実と向かい合って生きて行けばいいのだろうか。それを考えると体の中の骨という骨が積み木のおもちゃのようにかたかたと鳴り出して今にも崩れ落ちそうなくらい体が震え出した。