イメージ 1

「とにかく体を休めないと。それからだよ、何事も。今は何とも言えない。」

秋本の言葉の中に『もう海外に行くなんてとんでもない。』という雰囲気を感じ取った。

「秋絵さんはとにかくお前にきちんとした治療を受けて欲しいそうだ。ただペインコントロールだけじゃなくて最後まで諦めないで治療を受けて一日でも長く生きて欲しいんだそうだ。そんな秋絵さんの気持ちも分かってやれよ。」

秋本の言葉に反発が湧き上がった。

『それなら治せるのか。体中にチューブを挿されて苦しむのは一体誰なんだ。機械や薬品に心臓を動かされて呼吸させられてそれのどこが生きているんだ。残されたほんの僅かな時間をそんなことに費やしたくないんだよ。』

 延命治療に対する精一杯の抵抗を口に出して言うかわりに秋本の顔を見つめた。秋本は答える代わりに僕から目を逸らして俯いた。

「お前の言いたいことは分かっている。分かっているからきちんと治療を受けろなんてことは強くは言えない。でもな、秋絵さんの気持ちも分かってやれよ。彼女も辛いんだ。お前に何もしてやれないことが。ただお前が死んでいくのを黙って見ているしか出来ないことが。」

 死ぬという言葉を自分から口にしたことに驚いて秋本は口を噤んだ。そしてしばらくしてから「悪かった。こんなことを言って医者失格だ。」と言ってうなだれた。

「気にするなよ。もう先行きは分かってることだから何とも思わないよ。お互いに隠し事はやめよう。あいつは、秋絵はそういう女なんだよ。何でも決められたことを決められたとおりにやらないと気が済まないんだ。例外なんかないんだよ。どんなことでも王道を行かなければ気が済まないんだ。

 俺みたいにもう回復の見込みがなくてもきちんと病院に入院して最先端医療を駆使した最善の治療を受けてそして死んでいかなければあいつの美学に反するんだろう。それが秋絵の愛で秋絵の最高の優しさなのかも知れない。」

秋本は顔をしかめた。

「彼女はそんな女じゃないと思うよ。それに医者の立場を言わせてもらえば状態を安定させるためには何よりもまず適切な治療を受けることが第一だと思う。最後まで『生きる』と言う意思を持ち続けることが、」

「秋本、『生きる』ってどういうことだと思う。科学者のお前ともの書きくずれの俺では考え方も違うだろうが、俺は体中にチューブを挿されて機械と薬で意識もなく呼吸させられていることを生きているとは思わない。」

 秋本を遮って割り込んだ僕の言葉で秋本はまた俯いた。そんな秋本を見ていてその場の腹立たしさに任せて何の責任もない秋本に秋絵とのわだかまりやどうすることも出来ない自分の運命に対する苛立ちの矛先を向けてしまったことを後悔した。

「悪かった。お前の気持ちも考えないで勝手なことばかり言って。秋絵には僕からよく話してみる。それからしばらくここで休ませてくれ。余り出来のいい患者じゃないと思うけど。」

秋本は顔を上げて弱々しく笑った。

「現代の最先端医学なんて言っても僕には君も秋絵さんも救うことが出来ない。時々夢を見ることがあるよ。『無念だ、無念だ。』と呻きながら力尽きて倒れていく医者の群れを。患者の体も心も救ってやれない。そんな医学って一体何だろうとそんなことを考えることがあるよ、特に最近は。お前や秋絵さんのことを考えると。」

秋本は首を二、三回、横に振りながら立ち上がった。

「医者って仕事も世間で言うほど良い商売じゃないよ、こんなことお前だから言うけどさ。さあもう遅いよな。明日の朝から食事が出る。大したものじゃないけど。それと何か用事があったり具合が悪かったりしたらベッドの脇のボタンを押して呼んでくれ。」

 秋本が部屋を出て行くと部屋の中はまた元のように静まり返った。一度消したテレビを点ける気にもならずにそのまま椅子に腰を下ろした。考えてみれば独りで死と向かい合うのはこれが初めてだった。今までは特に意識したこともなかったが、独りになってみると死という未知の恐怖が頭の中で大きく膨らんで僕を締めつけた。

 一体、自分が死ぬということがどういうことなのかそのことからして理解出来なかった。ただその理解の出来ない現実が自分の身に迫っているということだけは確かなことだった。この先自分の人生にはさほどの興味はなかったが、自分がこの世の中から消えてしまってもそんなことには関係なく世の中は動いて行く。そしてその世の中に触れることは勿論、ただ傍観者として見守ることさえ許されないのかと思うと自分を世の中から隔絶してしまう死に対する恐怖が僕を揺さぶった。

 天国や地獄を信じている訳ではなかった。自分の生活に未練がある訳でもなかった。もしも死後もこの人間の世の中を傍観者として何処かで見守っていくことが出来たのなら、僕は死を望むこともあったかも知れない。僕には何よりこの世界から自分が全く遮断されることが何よりも恐ろしかった。そんなことを考えていて僕は苦笑してしまった。今まで自分がこれほど世の中に未練を持っているなどとは考えもしなかった。

『世の中を斜めに見下げて冷たい嘲笑を投げかける男』

 そんなことを周囲から言われて内心満更でもなく思って思い上がっていた自分が恥ずかしかったが、自尊心や意地ではとても本能的な恐怖には勝てそうにもなかった。

『何故、今までそれほど恐怖を感じなかったんだろう。こうして日本に帰って来て現実に引き戻されたせいだろうか。それとも何か他に理由があるのだろうか。』

 自分なりに理由を考えてみたがどれも思い当たらなかった。死を恐れて悶々として思いを巡らせてみても、何の解決にもならないばかりかただ無駄に時間を過ごしているように思えたが、何かをしようと思っても何も手につかなかった。そしてそれはベッドに入っても同じことだった。眠ろうとしても寝つけず、死に対する恐怖は益々膨らんで僕を圧迫した。

 長い間ベッドの中で悶々として時を浪費した後で僕はベッドから起き上がって窓に近づいて外を見た。窓から見える街は闇の中に静かに佇んでいるように見えた。その闇の中に浮かんでいる光の数を数えながら自分が辿って来た人生の軌跡をもう一度振り返ろうとした。

『自分はこれまで一体何をしてきたんだろう。今お前の生き方の総決算をここに出してみろと目の前に突きつけられているのにこれがその総決算だと胸を張って出せるものがあるんだろうか。自分なりにその時その時を精一杯生きて来たつもりだったけど、そんなものは単に自己満足か自己弁護に過ぎなかったんだろうか。』

 考えれば考えるほど結果は悲惨なものに思えた。何をどう考えてももう間もなく終わろうとしている自分の人生に何かしらの意味も見出だすのはとてつもなく難しそうなことに思えた。窓際に随分長いこと立ち尽くしてから僕はまたベッドに戻った。そして闇の中に存在を誇示するように輝いていた光が徐々にその存在感を失って消え去ろうとしている頃になって僕はやっと浅い眠りに落ちた。その浅い眠りはすぐにノックの音で破られた。