車は空港から夕暮れの町を抜けて高速に入ると東京を目指した。東京が近づくに連れてビルの数が増え始め、何時の間にか車はビルが重なり合う巨大な都市の中を走っていた。休日のためか高速は渋滞もなく程よく流れていた。巨木の生い茂る森を流れる小川のようにビルの間を縫って伸びている高速道路を車は滑べるように走り抜けて行った。
「東京って本当に大きな街なんだな。」
僕はシートに体を沈めたまま、独り言のように呟いた。
「えっ、何か。」
運転手は僕の独り言を小耳に挟んだようで後を振り返った。
「いや、東京ってこうして見ていると本当に大きな街なんだなと思ってさ。」
運転手はそんなことどうでもいいといった様子で生返事を返したが、それからしばらくして「お客さん、何だか具合が悪そうだけれど大丈夫ですか。」と尋ねた。
「長い旅行だったから少し疲れたのかな。大丈夫ですよ。」
「そうですか。それならいいけど。顔色も良くないしそれに何だか苦しそうだから具合でも悪いのかと思って。さっきから気にしてたんですが。」
運転手は少し安心した様子でハンドルを握り直した。
車は渋谷の先で高速を降りて世田谷の住宅街をしばらく走ってから個人病院としては大き目の病院の前で止まった。料金を支払って車から降りると運転手はトランクを開けて荷物を下ろしながら僕の顔を黙って見ていたが、何も言わずに車に乗り込んで走り去った。病院の門をくぐって正面玄関のインターホンを押して名前を告げるとすぐに玄関が開いた。
「森村、心配してたんだぞ。とにかく中に入れ。色々話もあるし。」
玄関先に出て来た秋本は僕を中に招き入れた。そしてそう広くもないロビーや外来の診察室を抜けるとその奥にある応接室に通された。
「森村、お前が突然外国に行ってしまってから、みんなずい分心配したんだ。今日帰国することは奥さんには連絡しておいた。明日会いに来るそうだ。森村、お前の、」
秋本が何か言おうとしたのを僕は遮った。
「大学時代から随分長いこと東京で生活して来たけれど東京って本当に大きな街だったんだな。今まで気がつかなかったよ。こんなにまじまじと東京を眺めたのはこれが初めてかも知れない。ところで秋本、お前の言いたいことは分かってる。みんなに心配かけて悪かったと思ってる。分かってはいるけど人生の最期くらい自分の好きなように思い切り好きなことを生きてみたかっただけだよ。」
秋本は僕の顔を見つめながら頷いた。
「まあそれはそれでいいからとにかく少し休めよ。ここで出来るだけのことはするつもりだから。」
「分かった。そっちの方はお前に任せるよ。でも俺は抗癌剤治療なんてごめんだよ。」
秋本は少し顔を歪めたように見えた。もしかしたら笑おうとしたのかも知れなかった。
「診てみなければ正確なことは言えないけれどあれからもう四か月も経っている。正直言って抗癌剤なんてそんなのんきなことを言える時期じゃないと思うが。」
「分かってる。とにかく暫くはお前に任せるよ。もっともそう言われてもお前は困るかも知れないけど。治療を受ける気のない患者なんて。」
秋本はさっきと同じ様に顔を歪めたが、今度は最後にきちんと笑顔を作って見せた。
「本当に困った患者だよ。いずれにしても今日は休めよ。部屋は準備してあるから。」
秋本は立ち上がって先に立って歩き始めた。秋本が準備してくれた部屋は小さいが個室だった。ベッドの脇の点滴スタンドと壁に取り付けられた酸素バルブがなければとても病室とは思えないくらい洒落た部屋だった。
「この部屋を病室として使うのはこれが初めてだ。いつもは客間にしたり自分の仕事部屋代わりに使っていた。でもまさかお前をこの部屋に入院させるなんて考えもしなかったよ。」
秋本はドアを開けて部屋を一回り見渡した。
「取り敢えず食事でもどうだ。終わったら風呂でも入って休めばいい。」
「機内で食事は済ませた。風呂はこの部屋のシャワーでいい。手数をかけて申し訳けないけれど暫く世話になるよ。」
僕は秋本に軽く微笑みかると荷物を部屋に運び入れた。
「遠慮しないでゆっくりしてくれよ。何かあったら何でも言ってくれ。そのくらいしか、僕に出来ることは」
秋本はもっと何かを言おうとしたようだが言葉に詰まって俯いた。
「ありがとう。遠慮なく言わせてもらうよ。」
秋本はドアを閉めて部屋を出て行った。独りになるとテレビを点けてベッドに座った。元々余りテレビなど見る方ではなかったが、たった四か月でどのチャンネルに写る番組も馴染みのないものになってしまっていた。
テレビの画面から目を離すと僕はもう一度部屋の中を見回した。秋本は僕のためにこの部屋を準備してくれたのだろう。ベッドの他にテーブルとソファーベッド、洗面台、簡単な調理くらい出来そうなレンジと流し台、最後の時を過ごすには本当に至れり尽くせりの設備だった。
『あと何か月か本当にこの部屋で最期の時を過ごすのかな。』
実際体の不調や疲労感はあるものの自分に残された時間があと僅かだということがどうしても実感として湧いてこなかった。シャワーを浴びた後で自分の体を鏡に写して見ると肉の削げ落ちた体は一回り小さくなったように見えた。
何だか無理矢理命を削り落とされたような自分の体をバスローブで包み隠して冷蔵庫からビールを取り出した。そしてベッドに腰を下ろして一口飲み込んだ。炭酸の刺激と程よい苦味が口の中に広がったが、僕の体はもうその心地好い刺激と苦みを受け入れることが出来なくなっていた。
僕は込み上げてくる吐き気に嫌気がさしてビールを投げ出すと今度はベッドに横になった。テレビは相変わらず馴染みのないバラエティを続けていた。ノックの音がした。そして一呼吸おいてドアが開くと秋本が入って来た。