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「結構飲むんだな。それじゃあ毎月の酒代が大変だろう。」

「普段は飲まないわ。お酒は嫌いなの。飲むのはつき合いだけよ。」

「ふうん、そうなのか。なかなか良い飲みっぷりなのにな。さて俺は店を片づけるか。しばらくそこでゆっくりしていてくれ。」

「手伝いましょうか。」

「いや、ここは俺の職場だから俺が自分でやることにしているので手伝いは要らない。」

マスターはそう言うとまずテーブルやカウンターに残されたグラスや皿を片づけ、次にモップで床を拭いてゴミを片づけた。それが終わるとテーブルとカウンターを拭いて椅子を揃えて喫煙席には新しい灰皿を並べた。

 その後カウンターの中に入るとグラスや食器をあっという間に洗い上げ、それから調理器具を片付けるとすべてが終わった。その間、一時間にも満たない鮮やかな手際だった。

「さあ、明るくなって来た。もう酒は止めてコーヒーにしよう。」

 マスターは大きなカップに並々と注いだコーヒーを持って来た。僕ももういい加減酒は飲み飽きたのでこっちの方が有り難かった。

「車を呼ぼうか。相棒があれでは電車では大変だろう。」

「あ、はい、お願いします。」

 僕はそう答えるとトイレに立った。そしてトイレの便座に腰を下ろして出すものを出してほっとした時僕は一体何をしているんだろうと思うと何だか言い様もなく淋しくなって目に涙が滲んでしまった。その涙をそっと拭って何回か深呼吸をして淋しさを悟られまいとちょっと肩ひじ張ってトイレから出た。

 店の隅に目をやるとまだクレヨンが言葉屋と寄り添って寝ていた。僕はクレヨンを起こそうとクレヨンの方に歩き出した時に後ろからマスターに抱きすくめられた。そしてそのままくるりと体を回されると目の前にマスターの顔があった。

 マスターは僕を右手で抱きかかえると左手で僕の右の胸を本当に大事なものを包むようにそっと手を当てた。マスターはきっと本当に僕を女として大切に扱ってくれているんだろう。でも僕には胸なんか触られてもちょっとくすぐったいくらいで特にこれという感情もなかった。

「どうしたんだ、淋しいのか、涙なんか滲ませて。大丈夫だ、きっと皆がお前を助けてくれるから。お前は本当に優しい良い女だよな。こんなことをしてはいけないんだろうけど涙を滲ませても肩ひじ張っているお前を見ていると何だかいとおしくなって我慢が出来なかった。ごめんよ。」

「優しくしてくれてありがとう。生まれて初めて男の人に抱かれて優しくしてもらったわ。満更悪い気分ではないけどお願いだからここまでにして。」

 マスターは腕の力を緩めた。僕はそっとマスターの腕をすり抜けるようにマスターから体を離してクレヨンを起こした。僕は自分が男だからと思って男を毛嫌いしてきたが、もしかしたら安心感とか心地良さと言うのは性別を超えた優しさのなせる技なのかも知れない。

 寝ぼけ眼でふらつくように立ち上がったクレヨンに「もう朝になってしまったわ。帰って少し休もう。」と声をかけてクレヨンを支えながら出口へと歩いた。そして出口で振り返って「本当に楽しかったわ。ありがとうございました。」とマスターに向かって御礼を言った。

 「こちらこそ、本当に楽しい夜を過ごさせてもらった。それも飛び切りすてきなかわいい女と。礼を言わなくてはいけないのはこっちの方かもしれない。改めて礼を言うよ、ありがとう。」

 マスターは僕に向かって微笑んだ。眠くて体が濡れた綿のようにだるかったが、何だか心は軽くなったような気がした。こんなことが起こるとは思っても見なかったが、僕にしてみれば男に抱かれることもおでこや頬っぺたにしても男にキスされることも、そして胸を触られることも全く初めての経験だったし、全く予想もしていなかった相手としてしまった。僕にしてみればそれこそ本当に出血大サービスだったが、このところ女土方のことで行き詰まって苦しかった心が少し軽くなったような気がした。

 どうして急にこんなに男を受け入れてしまったのか自分でも分からない。酔いのせいもあったのかも知れない。好奇心もあったのかも知れない。でも僕は思うんだ。優しさと言うのは性別を超えているって。そしてあのマスターの優しさは今の僕にとってきっと性別を超えて心に届いたんだと思うんだ。