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「良く出来た話だけれど本当だとは信じがたいなあ。まるで映画か小説のようだ。現実にはあり得ない話だよな、実際。ところでその話を誰かにしましたか。」

「伊藤さんたちには、ちょっとね。」

「もうあまり話さない方がいいかも知れない。」

「どうして、どうして話してはいけないの。これは紛れもない事実よ。それともこんなことを言っていると頭がおかしくなったと思われるから。」

「それもあるけどそんな途方もない話ではぐらかされるのは男にしてみれば何だか馬鹿にされているみたいで。この年になって純粋だの愛だの恋だの言う気もないけどなあ、この年だからこそということもあるんだから。」

うーん、そうかあ。確かに立場が逆だったら相手にこんな話をされればそう思うかも知れない。

「事の成り行きで言っておけば僕はあなたに好意を持っている。それだけは伝えておきたい。ただあなたにはあなたなりの思いや生き方があるだろうから、そこまで干渉しようとは思わない。僕があなたを好きだと言ってもそれは僕の勝手な思いだから、あなたがそうでなくてもそれは仕方のないことだ。でも、さっきのような途方もない話ではぐらかされるのは自分としてはどうも納得出来ない。

 あなたは自分が男だと言う。確かにあなたにはところどころ女よりも男を感じさせる部分があるが、周囲の人達はあなたを女と認めて女として処遇している。僕もあなたが男だとは信じ難い。成熟した知性を持った素敵な女性だと思っている。」

「それはどうも。でも私はあなたがどうして劇的に変わったのか話せというから事実を話しただけよ。信じるか信じないかそれは私の問題ではないわ。私はあなたを馬鹿にしてなんかいないわ。却ってあなただからこそこんな途方もない話をしたのよ。相手をそれなりに信用していなければこんな話はしないわ。」

 これは極めてもっともなことで言葉屋もこれにはさすがに黙り込んだ。しかしいきなりこんな話をされたら誰もそのとおりだなどと言う者はいないだろう。それに話したのは絶対に信じないだろうと言う確信を前提としたいたずら心とアルコールのせいかもしれない。

「あなたが話したことが事実だと言う証明もないんだろう。以前の自分のことも覚えていないんだろう。」

「何もないわ、何も覚えていない。あなたのように独身でフリーで英語の仕事をしていたとしか記憶はないわ。でも私の知らない潜在意識にはいろいろな記憶が残っているのかも。ねえ、もしかしたら元の私はあなたなのかも知れないわね。」

今はもう元の自分が言葉屋ではないという確信があったのでちょっとからかい半分に聞いてみた。

「いや、そんなことはない。僕の記憶はしっかりと続いているから。」

「そう、いいわね。私は過去がなくなったわ。」

「気の毒にな。」

「でもね、今は別に不幸とは思わないわ。これで生きていくしかないんだから、それはそれで楽しいわ。あのね、あなたのことを最初に見た時、何だか懐かしくて頭がボウっとして立ちすくんでしまったわ。その時、『もしかしたらこの人って元の私かな』って結構真剣に考えたんだけど違ったみたいね。どうしてそうなったのかは特に明確な説明は出来ないけど、たぶん元の自分に似た人を見て潜在意識が反応したのかも。」

「見事に女言葉を使うね、意識しているのか。」

「勿論よ。この体では男言葉は使えないわ。使ったらきっと周りがびっくりするわ。でもね、本当に怒った時は男の時の立ち居振舞いが出る時もあるみたいね。」

「何だかうそや冗談を言っているとも思えなくなって来たけど、そんなことがあるなんてこと自体信じられないなあ。」

「いいわよ、信じてくれなくても。」

その時僕は突然肩を叩かれて驚いて振り返った。そこにはこの店のマスターが立っていた。

「おれは信じるよ、人間が入れ替わるなんてそんなことがあるかどうか科学的に証明しろと言われても分からない。要はこの人を信じるか信じないかと言うことだろう。俺にはこの人がうそを言っているとは思えないよ。もしもそれが本当ならずい分苦労したんだろう。表面的にしても落ち着いて生活できるようになるまで。こんなことを無闇に話したりしたら頭がおかしくなったのじゃないかと思われかねないのに。

 目が覚めたらいきなり自分が女になっていたなんで普通の人間だったら発狂してしまうかもしれない。もしも半分ボケたばあさんなんかに変わってしまったらどうするんだろう。自分の周囲のことも何一つ分からないのに良く落ち着いて生活が出来たもんだよ。

 きっと言うに言えない辛い思いをして来たんだろうに、この人は本当に正直に淡々と話している。こういう人にうそは言えないさ。ねえ、俺だったらこの人がたとえ男だろうと女だろうと惚れちゃうねえ。なかなか腹が据わっていて度胸もありそうだし、変に自分を飾ったりしない。いや、本当にいい奴だよ、この人は。」

 どうしたことかバーのマスターが僕の言うことを信じると言ってくれた。信じると言うよりも何か人として共鳴するところがあったのかもしれない。僕は何だか涙が出そうなくらい嬉しかった。本当に女だったらどっと泣き伏していたかも知れない。

「これはあなたに僕からの奢りだ。飲んでくれ。」

 マスターは自分でビールのグラスを持ってきて僕の前に置いた。酒なんかただでもらっても嬉しくもないが、マスターの気持ちが嬉しかったのでありがたくいただいておいた。

「僕は何とも言えないなあ。うそをつくような人でないことは分かるが、人間が入れ替わってしまうなんてそんなこと実際にあるはずがない。でもそれはそれとして僕もあなたが好きだな。ただ、確かに女性と話しているというよりも何となく息の合う同性と話しているような感じがするかな。まあいいか、たまには思い切って飲むか。」

「理屈で考えてはだめなんだよ。信じるか信じないかは人と人との心の共感だよ。」

マスターがなかなか良いことを言ったところにクレヨンがおずおずと店に入って来た。そして入り口のところでそっとこっちを覗いていた。