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 電車に乗り込んだがまだ全身の悪寒が消えなかった。実は僕が慌てて言葉屋から遠ざかったのは抱き止められた時に全身に生じた悪寒を悟られないためだった。相手の男性に人として好感を持っていようがいなかろうがそんなことはやはり関係なかった。

 男の腕に抱き止められて男の息を間近に感じるなんてことにはいくら体が女になっても男の精神構造と感性を持つ僕には耐えられないことだった。これではっきりした。僕は女土方としか暮らせないし、お互いのためにそうすべきなんだ。心が決まれば後は前に進むだけだ。

 翌日、女土方は何となく態度を軟化させて来たように見えた。今までのように徹底的に跳ね返してやろうと言う力みが少し薄まってそれとなく僕の様子をうかがうような素振りが見えて来た。きっと夕べのことが効いているんだろう。これはやはり良い傾向と言うべきだろう。

 女土方にしろ僕にしろ、お互いに好きなんだし、それなりに相手が必要なんだから素直になりゃいいんだよ、素直に。変に相手のことを考えたりするからおかしくなるんだ。自分にとって何が大事か、それを考えて最優先すれば良いんだよ。それが出来る立場なんだから、お互いに。

 ところで今晩、僕は仕事が引けた後あるところに行こうと決めていた。それは何処かと言うとあの例のビアンバーなんだ。僕は今回の女土方とのことをあのバーのママにちょっと聞いてみようと思っていた。勿論、自分の生き方とかそんなことじゃなくて女土方のことだけど。

 夕方までは何だかんだとごたごたしてしまって少し仕事を残してしまったが、どうせあの手のバーに夕方早くから行くわけでもないのでややゆっくり目に残業をしていた。

「ねえ、帰らないの。」

クレヨンが僕と女土方を窺いながらそっと聞いた。

「ちょっと寄りたいところがあるのよ。先に帰りなさい。もしかしたら遅くなるかもしれないから食事はパスでいいわ。」

「ええ、何処に行くの。まさかあの男のところ。そういえば昨日帰りに駅の近くで抱き合っていたじゃない。」

このサルがまた余計なことを言う。口を滑らすにもほどがある。

「あんたね、また人聞きの悪いことを言わないでよ。つまずいてよろけただけよ。そんなことを言うとまた明日には会社中をその話が駆け巡っているでしょう。『佐山芳恵、翻訳家と夜の銀座で熱い抱擁を交わす』とか。」

 この一言で女土方の表情がぴくりと動いて険しくなった。せっかく雪解けムードになってきたのにこれはまずいとは思ったが、口から出てしまったことはもう仕方がないので僕はわざと大きな声で事実を説明しておいてからクレヨンの頭を叩いてやった。クレヨンも自分の一言がまずかったことに気がついたらしくまた慌てた顔をして口を押さえたが、もう後の祭りだった。

「私的なことには口を出すつもりはないけど前回のように変なことになって仕事に影響を及ぼさないようにね。さ、私は帰るわ。」

 女土方はまた冷たい視線を向けて足早に部屋から出て行った。前回のようにってあの営業君とのことを言っているんだろうか。あれは僕の方が一方的な被害者じゃないか。

「まったく余計なことばかり言って。せっかく雪解けムードだったのにまた振り出しに戻っちゃったじゃないの。振り出し以下かもしれないわね。」

 僕が一言文句を言うとクレヨンはまた涙声になって「ごめんなさい」と謝るのだった。しかし、そうして問題を起こしてから反省するんじゃなくて起こす前に考えろよ。こいつみたいに同じ失敗を繰り返すということは口だけが滑っているんじゃなくて脳味噌全体が滑りまくっているんだろう。