これは一匹狼の言葉屋独特の考え方で組織人にはうまく理解できないかもしれないが、僕には言葉屋の言うことがよく理解出来た。要は時間に縛られるのがいやなのだ。そんなことに労力を使うのならその分を仕事にかけた方が良いという合理的で我が侭な考え方だった。
勿論僕は言葉屋を支援してやった。そりゃそうだろう、僕だってこうなる前は今の言葉屋と全く同じことをしていたのだし、立場が一緒なら僕自身もきっと在宅勤務を強硬に主張したと思うからだ。結局この問題は言葉屋の希望を入れて週に二回打ち合わせなどのために出勤し、それ以外は原則として在宅勤務となった。
その後は各業務についての細かい打ち合わせを行ったが、その際、生涯語学講習について言葉屋から、「言わんとすることは分かるがあまりにも漠然とし過ぎていて焦点が絞り難いので今ある「英語を戦うコース」「英語をファッションするコース」を基本としてシルバー世代と子供用のプログラムをつけ加えるようにしたらどうか。」という提案があった。
この提案も極めてもっともなことで僕自身も同じことを考えていたのでそれを説明して理解してもらった。またお手軽留学についても出来るだけ早くテーマを決めて先方の受け入れ先を探さないとやれと言われてもすぐには実施出来ないという旅行屋からの要望があり、これも早急に検討することになった。
この日はこちらの企画を新来者に説明し、意見を聞くなどの刷り合わせで終了となった。融資担当は今後週一程度で顔を出すとのことだったが、旅行屋は毎日、言葉屋は週二程度顔を出し、残りは在宅勤務となった。勤務の形態について人事に確認したが、言葉屋も旅行屋も当社が契約をしている社員ではないのでどのような勤務形態でも契約先が了解すれば、それで会社としては問題ないとのことだった。
そんな雑務を処理して新体制第一日目は終了した。僕達は身の回りを片付けて帰宅の途についたが、僕がクレヨンを連れて帰ろうとすると女土方が後を追って来て「今日は一緒にクレヨン宅に帰る」と言い出した。突然のことでちょっと面食らったが僕として女土方が来ることに何の問題もなかったし、クレヨンに至っては夜の仲間が増えると大はしゃぎだった。
「どうしたの、自分から来るなんて珍しいじゃない。」
「お邪魔かな。でもあなたのそばにいたい気分なの。」
「お邪魔なんてそんなことあるわけないでしょう。どうしたの、変なこと言って。」
女土方は何も答えなかった。僕とクレヨンという組み合わせは外から見れば女同士で問題が起こり様もないのだが、実際には僕が男なのだからやはり危ない関係だろうし、さらに女土方にとっては女同士と言うのが問題大有りの組み合わせなのかもしれない。それをことさらに訪ねて来るというのは女土方が僕達の関係を疑っているのだろうか。
「自宅によって着替えを持ってから車で行くわ。」
「そうなの、早く来てね。食事は待ってるから。」
クレヨンはもう女土方の食事について自宅に連絡を入れたようで女土方にじゃれ付いていた。女土方もクレヨンには「うん、後でね。待っててね。」などと笑顔で優しく答えていた。
女土方と一旦別れてから僕は今日会った言葉屋のことを考え始めた。あの言葉屋にどうしてあんなに懐かしさを感じたのだろう。もっとも単純な筋書きを考えればあの男が佐山芳恵と入れ替わる前の僕だと言うことになる。もしもそうであるのならその元祖僕に入っているはずの元祖佐山芳恵が何かを言い出すだろうが、そんな気配もない。
もっとも僕が元祖僕を覚えていないように佐山芳恵も元祖佐山芳恵を覚えていないのかも知れない。それにあんなところで「私は女だったのに突然男の体になってしまい、言うに言えない悲惨な目に遭っています」なんて言い出すことは出来ないだろうからそういう可能性がないとは言えない。
でももしも元祖僕があの言葉屋だとしたらどうなんだろう。あの手の男は容貌も印象も人柄も嫌いではない。でも、でもだよ、極めて品のない言い方で申し訳ないが、ここはとても大事なところだから敢えて言うけど、今の僕があの男と出来るかと言われれば、それは今の僕としてはやはりご辞退申し上げますとしか言い様がなかった。
昔、悪い仲間が集まって、もしも女になったとしたらどんな男となら出来るかなどという今になってみれば本当に浅はかな他愛もない話題で盛り上がっていた時、僕が答える番が回って来たので、「もしも僕が女になって男とその手のことをするとしたら男の自分しかあり得ない。」と言ったところ何と言うナルシストかと非難轟々だった。
どうして自分が好きだと言うことが非難の対象にならなければいけないのかよく分からないが、今でも僕はそう思っているし、もしも今、元の自分に出会えばたとえ記憶がなくともきっと必ず分かるはずだという確信がある。だからあの言葉屋は元の僕ではないと信じているが、これも自分の感性といった類のもので客観的な確証ではない。
ただ最近それとなく思うのだが、今の僕はこの佐山芳恵という女性の姿をした人間であってそれ以外の僕はあり得ないのではないか。どうしてって元の自分が誰だろうが、それはもう他人であって自分ではあり得ないのだから。だから元の自分が誰だろうなどと考えること自体意味がないのじゃないだろうか。そんなことを考えていたらいきなりクレヨンにわき腹をど突かれた。
「何を呆けた顔をして考えているのよ。昼間のあの男のことでも考えてるんでしょう。先に希望のない熟女は藁をもつかむのかしら。でも中年カップルでお似合いかもねえ。」
僕は振り向き様クレヨンの首根っこを抑えて「何だって、もう一度言ってごらん。もっとももう一度言えればの話だけど。」と凄んでやった。クレヨンは「グエッ」というカエルのような声をあげた後、「ごめんなさい、もう言いません。」と小声で謝ったが、ちょうど電車が駅に滑り込んだのでそのまま首を抑えて電車から降ろしてやった。周りの乗客が驚いたようにこっちを見ていたがかまうものか。でも真に受けた人に一一〇番でもされたら少し困るかも知れないが。
ホームに下りて手を離すとクレヨンは二歩ばかり横っ飛びに飛びのいて僕の手が届かないところで「暴力魔、あんなたんか中年だろうが老人だろうが絶対に貰い手なんかないわよ。」と毒づいた。それを追いかけたりまた逃げたりするのがもう僕達の間では約束動作のようになっていてお互いに結構楽しんでいた。