つまり言葉を習いたければインターネットなどの高速デジタル通信網を介して何時でも自分の好きな時にどこからでもアクセス出来て必要な資料が手に入り、勉強が出来る環境の整備が一つの柱だった。これはもうあちこちで実際に運用されているようだから特に目新しいものではない。特に駅前なんとかいう会話スクールは二十四時間独自のテレビ回線を使って語学レッスンが受けられるようだ。
でも僕は語学を机に向かっていかめしく構える勉強として捉えようとは思わなかった。言葉と言うのは自分の生活範囲を広げ豊かにするための魔法の道具のようなものだと思うのだ。交通機関や通信手段が発達して世界は極端に狭くなった。行こうと思えば地球のはてまでだって行くことも難しいことではなくなった。
そして行った先で自分の興味を充足させるためにはやはりコミュニケーションの手段として言葉が必要だ。それはボディランゲージでも大雑把なことは通じないこともないだろう。でも本当に興味の対象についてしっかり理解しようと思ったらやはりそれなりに言葉が話せないといけない。
だから普段は高速デジタル通信網を活用して何時でもどこでもお気軽お手軽に言葉に触れておいて、でもそれだけじゃあ何か物足りない、味気ない、やはり異国を自分の目で見て自分の肌で感じたいと思ったらお手軽に外国に出かけて行けるような仕組みを作っておけば行く前も行った後もそれなりに励みになるだろう。
しかし本当に母国語以外の言葉を一生学んで行こうと思う人たちが実際にどのくらいいるんだろうというのは正直言って不安な要素だったが、これもこちらのキャンペーンや売り込み次第かも知れない。そんなことを考えながらもう何度も作った資料を手直しして必要部数を作成した。
その日は女土方のところに帰ろうとしたらクレヨンの「一緒に帰って!」コールに気圧されて結局あの邸宅に帰ることになった。自分の、いや、元祖佐山芳恵が借りていたアパートはとうの昔に処分してしまい、転がり込んだ女土方のところにもとんとご無沙汰状態で一体僕の家はどこなんだろう。ほとんど住居不定状態に陥ってしまったようだ。
僕にだって日本国憲法で保障された健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるのだし、健康な男の心と女の体を持った成人なのだから欲望が頭をもたげることもあるんだ。そんな時に隣にいるのがサルでは話にならないではないか。しかし僕には元来社会秩序適応性が欠如しているのかこんな根無し草的な生活も決して心地の悪いものでもなかったが、それにしても元の僕は一体どうなってしまったんだろう。そして佐山芳恵も。
最初のころは単に佐山芳恵と僕が入れ替わっただけなんだろうなんてお気楽に考えていた。僕も辛い思いをしているが、いきなり中年男の体に入ってしまった佐山芳恵はもっと大変だろうと。最初の頃は特に根拠があったわけでもないが、こんな状態はほんの一時的なもので何かの拍子にすぐまた元に戻るんじゃないかと思っていたが、どうもその気配が全く感じられなかった。
そんな訳でこの状態についてあれこれ考えもしたが、元々科学的にどうこうと言う話ではなさそうなので最近は考えるのを止めてしまってこの佐山芳恵の体と立場を使って適当に生活している。自分自身女になっても特に生き方を変えるでもなく自分の思うように生きていてそんなところはかなりいい加減だとは思うが、それだからこそこんな生活を続けていられるのかも知れない。
この頃は何だか最初からニュー佐山芳恵としてこの世に生まれ出たような気分になってしまった。僕はきっとこの先もこのまま女土方と寄り添いながら生きていくんだろう。今の僕はそれならそれでも良いかなと思っている。最初の頃はとにかく今はすっかりこの生活に馴染んでしまっていて今更どうこじれているか分からない元の生活に戻れと言われても却って困惑してしまうのは火を見るよりも明らかだった。
そんなことを考えているうちに夜が更けてしまった。クレヨンは僕の横で軽い寝息を立てながら熟睡している様子だった。こいつも最初のころは一寸刻みにしてピラニアにでも食わせてやろうかと思ったが、今では時々蹴りを入れたりすることもないではないけれど、それなりに憎らしくはない妹のような存在になっていた。
さあ寝ようと僕はクレヨンの方を向き直るとクレヨンの背中と腰に手を回して抱え込んだ。こういう時はこいつも心得たもので僕の腕の中に潜り込んで自然に体を密着させて来る。そんなことをしながらしばらくクレヨンの感触を楽しんでいたが、そのうちに僕も眠りに落ちて行った。
そして翌朝眼が覚めればまた会社に出社してあの部屋で新たな企画に取り組んだ。それが元から僕の天職だったように仕事に自然に取り組んで終われば自宅に帰った。いや、僕にはもう自宅はなかった。女土方の家が一応自宅になるんだろうけど、世間的には夫婦でもないのだからその生活はどちらかと言えば居候に近かった。クレヨンのところはもちろん他人の家だった。そうか、元々男だった時から根無し草の生活だったがそればかりは体が女に変わっても少しも変わらないんだ。