僕がそう答えると北の政所様は社長の方を向いて「ほらね」とでも言いたげに首を一、二回小さく縦に振った。
「そうか、それはよかった。せっかくの大事な企画もあるようだし。」
社長は安心したように微笑んだが、本当は僕よりも僕が担当している新しい企画の方が心配だったのかも知れない。僕自身よりも企画を心配されたのにはちょっと気分を害するが、少なくとも経営者たるものそのくらいの打算的な部分がないと情だけではこの厳しい経済環境を乗り切れないのでそれでいいのかも知れない。
「それでは調査の結果が出るまでちょっと待って欲しい。あとは冴子、じゃなかった、森田室長に何でも言ってくれ。」
社長との面談はこれで終わった。社長は「結果が出るまで少し待って欲しい。」と言っていたが、その日の午後には営業君は人事課付きとなり、併せて後任人事も発表された。営業君が人事課付きとなったということは実際に彼の行為が非として認定されたことになる。会社として公的にどのようにそれを疎明したのかは分からないが、要は僕の言い分を認めてくれたということだろう。これで問題はすべて片付いて大団円かと思ったらとんでもないことが待ち受けていた。
翌日、営業君が出社して来た。当然好奇の目は営業君とそしてその相手方である僕に集まった。廊下は黒山の人だかりというわけでもないがかなりの人数がそれとなくこの部屋を覗っていることは感じ取れた。今回のことで人間という生き物はつくづく人の不幸が好きなんだなと実感させられた。でも時と場合と話の内容にもよるが印の噂話は興味深いと思うこともあるのでそれも止むを得ないところはあるかも知れないが。営業君は部屋に入ると真っ先に今回の件に関する所信を表明した。
「僕は今回の会社の処分は全く承服しかねるものがあります。何より今回僕は両眼瞼眼球結膜化学火傷という傷害を負わされたにもかかわらず一方的に処分されるということは受け入れ難いものです。今回の処分については法的に対抗措置が取れるかを検討して対処していきたいと思います。」
この野郎、本当に黙っていれば勝手なことばかりほざく奴だ。もう少し何かを言ったら言い返してやろうと思っていたところ何とクレヨンが反撃の砲火を開いた。
「その何とか火傷って言ってもそれはあなたが佐山主任を襲ったからでしょう。本当ならこんなことじゃあ済まないんじゃないの。その辺をよく考えてみた方がいいんじゃない。」
これは極めて妥当な意見でそうした意見をクレヨンが口にしたことはほとんど奇跡と言ってもいい。そしてクレヨンにこんなことを言われる営業君はもうそれこそ「人間やめますか」の世界だろう。
「確かにそういう事実はありました。しかしそれは彼女から誘われた結果です。いわば僕ははめられたと言っても言い過ぎではないと思います。佐山さんは何時ものように、今回も初めからとても落ち着いていました。それは彼女自身そこで何が起こるか知っていたからです。僕たち二人しかいない会社の中で僕を自分の良いように誘ったんです。でも僕が自分の思い通りにならないのであんなことを。僕はきっと闘いますから。」
「あなたも男ならもう聞き苦しい言い訳にもならない言い訳はおやめなさい。」
とうとう女土方が口を開いた。
「その時起こったのかなんてその場にいた当事者しか分からないわ。だから何が起こったかを知るにはその当事者に聞くほかにはないのだけど、今あなたが何を言ってもあなたの言うことなんか信じる人は誰もいないわ。今回の処分もそうよ、事実確認ばかりじゃないわ、今回のことについては社として公式に佐山さんの主張を受け入れてあなたのを退けたということよ。
言っておくけど佐山さんはあなたのことは本当に嫌っていたわ。彼女があなたをわざわざ夜の会社の中で誘う理由なんて何一つないわ。おばかさんなことばかり言っていないで自分のしたことを本当に考えなさい。
それからね、佐山さんが落ち着いているのはこの人の状況判断能力と対応策を考え出す能力がとても優れているからよ。あなたが言うような理由で落ち着いていたわけではないわ。」
やっぱり女土方のものの言い方には有無を言わせない迫力がある。営業君も何も返せずに黙り込んだ。ところがここで予想もしないことが起こった。株屋の姉御が立ち上がったのだ。
「もう処分も出たんだから皆で何時までも吠えかからないでこれで終わりということでいいじゃない。お互いに結論が出ないことを何時までも言い合っても仕方がないわ。今日彼がここに来たのは辞職の手続きを始めるためよ。」
「辞職ってどうしてあなたがそんなことを知っているの。」
北の政所様が唖然とした表情で聞き返した。
「そんなことどうでもいいじゃないって言いたいけどまあいいわ、教えてあげるわ。私、彼と株で商売をしていくことに決めたの。私も彼と一緒に辞めるわ、この会社。何時か近いうちにこういうこともあるかなって考えていたけどね。こんな早い時期にこんな形で身を引くことになるとは思わなかったわ。
でもこの年になってもう自分一人で生きていく他ないかなって思っていたところにまさかこんな形でパートナーに巡り会うなんてね、ちょっと予想外だったわ。そうは言っても年も一回りも違うから何時まで相手をしてもらえるか分からないけど彼が私で良いって言うなら私はしばらくそうして彼と一緒に生きていくわ。」
この株屋の姉御の一言、これは効いた。その場にいた全員がこの株屋の姉後の発言で唖然騒然呆然の態で誰も何も口にすることが出来ずに呆けた顔を株屋の姉御に向けていた。一昨日の晩、ことが起こった時に僕と入れ替わりに株屋の姉御が部屋に入って来た。あの時点では間違いなく営業君と株屋は無関係だった。株屋は何か全く別の用事があって会社に来たのだと思う。そこであの事件に出くわして眼が痛いと泣き叫ぶ営業君に同情してしまったということだろう。
株屋の姉御は僕に対しては何も非難めいたことは言わなかったのでことを仕掛けたのは営業君だということは納得しているんだろう。それにしても何という電光石火の早業だろう。究極の甘えん坊の営業君と押し黙って感情を押し殺して滅多にものも申さないけど、きっと母性本能を持て余していたのだろう株屋の姉御が超甘えん坊の営業君に弾けるようにくっついてしまったのだろう。でも世の中には一回り以上も女の方が年上でも仲良く夫婦をしているカップルもいるんだし平均寿命を考えても女の方が五、六歳年上くらいがちょうど良いのかも知れない。