『やはり出たか、この物の怪が。』
怪奇映画ならそう言って刀の柄に手をかけるか、銃を構えるか、あるいは金切り声を上げるところだろうがこの場合刃物や飛び道具はよろしくないのでパソコンを閉じると黙って帰り支度を始めた。どうせ声をかければ訳のわからないことをああだこうだと言いまくるに決まっているので部屋を出る時に一言声をかけてづらかろうというのが僕の算段だった。
営業君は自分の机の引き出しを開けて何かをいじっていたが僕はなるべく営業君を見ないようにして支度を済ますと「お疲れ。」と言って出口へとダッシュした。しかし僕のところから出口までは係の島を半周しなくてはいけないのだが営業君のところからは一直線で出入り口へ届くのだった。
「そんなに急いで出て行かないでちょっと待ってください。」
営業君に出入り口を塞がれて僕らは面と向き合った。
「どういうつもりなの。そこをどいてよ。」
僕は営業君をにらみつけた。
「そんなに恐い顔をしないでください。僕はあなたと話がしたいだけなんですから。」
「もう何度も言っているはずよ。あなたと個人的におつき合いをするつもりはないって。だからそこをどきなさい。」
「恐いなあ、あなたはどうしてそんなに恐いんだろう。でもあなたのそういうところが僕にはたまらない魅力なんですけど。」
営業君は僕の方に半歩踏み出した。それに合わせて僕は半歩後ろに下がった。僕はいきなり飛びつかれて自由を奪われないようもう一歩下がって間合いを取った。
「おやめなさい。大きな声を出すわよ。」
「もう誰もいませんよ。僕だってそのくらいのことは確認していますから。」
「計画的なのね。これ以上何かすると犯罪よ。分かっているの。」
「警察は会社内の痴話喧嘩なんかには介入しませんよ。刺した刺されたになれば別でしょうけど僕はあなたを傷つけるつもりなんてこれっぽちもないんだから。」
「人の心を傷つけることは体を傷つけるよりもずっと深い痛手を負わせることもあるのよ。あなたにはそういうことが分かっているの。」
「僕はあなたを傷つけるつもりなんてこれっぽっちもない。ただあなたを少しでも近くに感じていたいだけなんだ。」
営業君は僕の方へ大きく一歩踏み出した。『来るぞ。』と思った瞬間右腕をつかまれた。口惜しいが今は力で対抗しても男にはかなわない。僕は体を開いて半身に構えると左手でこんな時のためにバッグの中に入れてあったあるものをしっかりとつかんだ。営業君は僕を自分の方へと引っ張り込もうとした。
「おやめなさい。ひどい目に遭う前に。これが最後の警告よ。」
営業君はもう何を言っても聞き入れる余裕がない様子だった。まあ、こうなれば普通の男はそうだろう。ぼくも男だから今の営業君の気持ちも分からないでもないが、いやだと言う女相手に無理強いしてはいけない。それは男の本旨に悖ることになるばかりでなく思わぬしっぺ返しを食うものだ。世間でも窮鼠猫を噛むと言うじゃないか。
まさに営業君が僕を抱きしめようとしたその瞬間僕は左手につかんだものを営業君の鼻先に突き出してちょいと噴射した。
「うわ、ぎゃあああ・・・。目が、目が辛い。何も見えない。」
営業君は僕の手を離して顔を覆うと絶叫した。
「だから言ったでしょう。やめないとひどい目に遭うって。」
僕は床にしゃがみこんで顔をかきむしっている営業君にそう言ってやった。それから洗面所に行くとバケツに一杯水を汲んで持って来てやった。手間のかかるやつだが、バケツも掃除用のだからあいこかもしれない。
「いい加減にあんたも懲りなさいよ。さあこれで顔でも洗いなさい。私はこれで帰るわ。」
相変わらず派手にうめき声を上げている営業君の前にバケツを置くと僕は荷物を持って部屋を出た。そこに株屋の姉御がやって来た。株屋の姉御はとっくに帰ったはずなのにどうして今頃戻ってきたのか分からなかった。
「どうしたんですか、一体。この騒ぎは。」
「自業自得、水で洗ってしばらくすれば楽になるでしょう。せっかく侵略者を撃退したのだから私はこれで帰るわ。」
狂ったようにバケツで顔を洗っている営業君と呆気に取られている株屋の姉御を残して僕はさっさと外に出るとタクシーを拾って途中以前手術をしてもらった医者によってからクレヨン邸へ戻った。営業君も株屋の姉御には世間の倫理に背くような行為はしないだろう。