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「主任に頼まれた趣味と語学を結びつけた留学ツアーというのは最近流行りだした比較的新しい企画のようです。今はまだ走りなのでそれほど種類は多くないようですが、これから各社とも様々な企画を出してくるんじゃないかと話していました。

 ただいずれにしても短期間で主になるのは趣味の方で語学は刺身のつまという程度のようです。ただ旅行社の方もいわゆるこれから暇と金を持っている団塊の世代を当て込んでいるようなのでうちがその気があるのなら何時でも共同企画に応じるとは言っていました。」

営業君はそれなりにきちんと調べて来たようで話の内容はそこそこ的を射ていた。

「お疲れ様でした。遅くまでありがとうございました。企画については今急に走り出すことは出来ないから後発になってもその分しっかりしたものを提供していけばお客はつかめると思うわ。じゃあまた明日詳しいことを教えてね。今日は遅いから引き上げましょう。」

 営業は相手様の都合だから時間は気にしないのかもしれないがこっちはそうはいかない。自分の責任を果たして給料分だけ働けばそれでたくさんだ。用もないのに遅くまで残るなんて真っ平ごめんだ。

「それから出来るだけ携帯には出てね。通じないところに入る時はその前に連絡してね。営業とはやり方が違うかもしれないけど遅くなるのなら現場から引き上げてもらってもいいのだしその方がお互いに合理的でしょう。」

「はい、分かりました。」

営業君は素直に返事をしたが、その後がいけなかった。

「主任、丁度良い時間だし帰りがけにちょっと食事でも付き合っていただけませんか。聞いてもらいたいことがあるんです。」

 帰り支度を始めた僕に営業君はとんでもないことを言い出した。こんな時間に酒なんかに付き合っていられるか。

「ごめんなさい。私は早く帰らないといけないの。今日はありがとう。」

 僕は荷物を持って出口に向かおうとしていきなり後ろに引き戻された。驚いて振り返ると営業君が僕の腕をつかんでいた。

「主任、冷たいなあ。お願いしますよ。」

 営業君は笑っているけど直感的に目を見てこいつ危ないと思った。僕は自分が男のつもりで営業君の腕を振り払おうと思ったが、どっこい今は自分が女であることを忘れていた。ウエイトで鍛えても所詮は女の筋力、振り払うどころか逆に引き寄せられて両腕をつかまれてしまった。営業君はさして筋肉質でもない普通の体格の男性で僕よりも一回りも体も大きい程度だが、クレヨンをあしらうようなわけには行かなかった。なるほど男の力というのは大したものだ。

「主任、僕はずっと待っていたんです。こういう機会が来るのを。お願いします、つき合ってください。」

 営業君の顔は笑っているが目がマジだった。こういう状況になると女だったら完全に取り乱してしまうのかもしれないが元々僕は男なのでさして慌てもしなかった。ただこのまま抱き締められたりそれ以上のことをされたりするのは真っ平御免こうむりたかったのでこの現状をどう打開するかを考えた。

「ねえ、自分が何をしているか分かっているの。手を離しなさい。」

 僕は営業君に向かって静かに言った。騒いで興奮させてもまずいし、自存自衛のために武力行使をするぞと事前に警告を与えておかないとフェアじゃないだろう。大体こんなところで強硬手段に出るなんて女の扱いを知らないも甚だしい。こっちはお前の五割増しで男を生きて来た百戦錬磨の壮年男性だったんだ。

「主任、いえ佐山さん、僕はただ分かって欲しいんです。僕の気持ちを。あなたに聞いて欲しいんです。」

 こいつは何を訳の分からないことを言っているんだ。今時の高校生でももう少し気の利いた口説き方をするだろうに。それとも確信犯でわざと時間を遅くして機会を狙っていたんだろうか。

「もう一度言うわよ。手を離して。」

 次の瞬間、僕はすごい勢いで営業君の懐に引き寄せられた。でも営業君がこういう行動に出るであろうことは想定の範囲だった。押してもだめなら引いてみろというが僕は引っ張り込まれる時に自分から営業君の方に踏み出して右ひざをほどほどの位置まで上げた。次の瞬間、僕の右ひざに硬いものと柔らかいものが同時に当たる感触がした。それは僕自身もずい分長いことお世話になった男を象徴する器官だがその感触はやはり気持ちの良いものではなかった。

「うっ」

 僕の腕をつかんでいる営業君の腕の力が急に萎えた。営業君は喉に何かが詰まったようなうめき声を上げるとそのまま崩れるように床に膝をついてうずくまった。思い知ったか。強硬手段に出る時はまず自分の弱点を防御してからするものだ。

「手を離しなさいと言ったでしょう。」

 僕は下腹部を押さえて床にうずくまったまま動かなくなった営業君にそう言って立ち去ろうとしたが営業君うめくだけで立ち上がろうともしない。同じ男だけにあの苦しさは良く分かるし、向こうが悪いとは言っても武力行使をした僕にも何がしかの責任はあるのかもしれないので気の毒になって戻って「大丈夫」と声をかけたが、それでも返事もしないでうめいている。

 フカシをくれているのかと思って顔をのぞくと真っ赤な顔をしてよだれと鼻水をたらしているのでどうも本当に蹴りが決まってしまったらしい。仕方がないのでしばらく腰を叩いてやって落ち着いた頃に立ち上がらせた。

「まだ痛いの。少し飛びなさい。ジャンプよ、ジャンプ。」

 僕は腰を曲げながら立ち上がった営業君のその老人のように曲がった腰を叩き続けながら促した。大体男ならこういう時はどうすればいいのか誰でも知っている。彼も知ってはいるがどうにも動けなかったんだろう。やっとの思いでよろめくように何回かジャンプした。そうしてようやく落ち着いてきた営業君を椅子に座らせると鼻水と涎を拭いてやった。

「これに懲りてあんなことはもう二度としないでね。今度はこのくらいじゃあ済まなかもしれないわよ。」

 駄目押しのつもりで一言脅しておいて返ろうとすると「待って、ください、そんな、つもりじゃ、ないんです。」と途切れ途切れに営業君の声がした。もう声を出せるようになれば大丈夫だろう。聞いたところによれば精巣というのは豆腐のようなふわふわとした人体で最も弱く柔らかい組織だそうだが高温に弱いという致命的な欠陥を補うために人体で最も強靭な腱組織で守られて体の外にぶら下がっている。だからちょっとやそっとのことでは破裂などしないそうだから営業君のも大丈夫だろう。