こうして怒涛のような一日が終わって僕たちは夜の壮行会へと繰り出した。場所はこれも社長が常日頃使っているのだろう築地の割烹だった。うちの会社は規模を取っても決してさほど贅沢が出来るような会社ではないのだけれどこんな贅沢をしていて経営は大丈夫なんだろうか。
まあ年商は百億を超えているからそれなりに儲かってはいるんだろうけど一車種で月に何百億も売り上げるトヨタなどに比べれば吹けば飛ぶような会社だが、考えてみれば僕がそんな心配をするような立場ではないのかも知れない。
会場はやや広めの個室で上座に社長と北の政所様が座り、一方に役員が、もう一方に僕たち室員が座ることになっていた。そして上座から女土方、僕、滝谷、女土方と同じ所属から配転になった臼井と言う年配の女性、英語、フランス語、ドイツ語を話すというマルチリンガルの秘書の美人女性、テキストエディターのお姉さんに最後がクレヨンだった。
女土方と同じ所属から配転になる年配の女性は株式操作の専門家で株の裏世界まで通じていると評判の女性だったが、これも独身だった。以前に結婚歴はあるようだったが離婚してそのまま独身を通している女性ということなのでビアンではないようだが、何となく暗くて華がないという感じがする女性だった。
秘書のマルチリンガルだがこれは僕たちと同じ年代の女だがなかなかの美人でしかも一時流行ったいわゆるDINKSだった。言葉も数ヶ国語を話すし、仕事も諸事万端手際が良くさすがに秘書と言う女性だったが、男付き合いもなかなか手際が良いという噂だった。
こうして見ると北の政所様、女土方、株屋の姐御、マルチリンガルとなかなか個性の強い野武士のような女が集まったものだ。頼もしいと言えば確かにそうだが組織に馴染まない一匹狼の集まりと言えばそうとも言えないことはない。それをそっと女土方に言うと「そう言うあなたが一番凶暴な狼よ。」と言われてしまった。
酒宴は社長の挨拶で始まった。社長は「デジタル電子技術、デジタル高速通信技術の長足の進歩を受けてこれからの教育、出版と言ったこれまで比較的保守的に推移してきた業界は急速な変化を求められていくことになると思う。今後、これまでの商品の方向性や業績に拘ることなく時代のニーズに敏感に反応して新しい商品、新しい分野を切り開いていかないと会社の生き残りもないし、皆さんの生活の安定もない。
このような状況にどのように対応していくかが今後の当社の浮沈にとって重要な鍵となる。今回十分とは言えないまでも市場の動向を分析して新たな商品を企画検討する調査開発室を新設することが出来たのは当社にとっても私個人にとっても大変喜ばしいことだ。業務を担当する森田室長以下各室員の皆さんには大変重い責任を負担していただくわけでご苦労も多いと思うが、それに十分に耐えられる能力を持った方たちを選んだつもりだし、会社としても出来得る限りの支援を惜しまないので是非力を尽くしてよい結果をもたらして頂きたい。」と挨拶をした。
それに続いて北の政所様の「与えられた任務は身に余る重責ではあるけれど全員が力を合わせて責任を全うしたい。」といった内容のお定まりの決意表明があった後に常務の音頭で乾杯となり、これで儀式が終わって後は宴会が始まった。北の政所様が「仕事もあなたも全身全霊をかけて尽くします。」なんて言ったら面白いだろうななんて無責任なことを考えていたが当たり前のことなんだろうがそんな言葉は欠片も出なかった。
僕はまず隣にいた営業君にお酌をしてやろうと思ったら彼氏もう卒なく向かいの重役様達に愛想を振りまいていた。こんなところはさすがに営業畑のお方でいらっしゃる。こんな気配りは僕には真似が出来ないことだ。
それが一通り済んでしまうと営業君は僕の方を向き直ってビールを差し出して「よろしくお願いします。」と挨拶をした。僕は慌ててビールのビンを持ち上げて「私の方こそよろしくお願いします。」と挨拶を返してお互いにビール瓶を相手に突きつけ合った。
「お先にどうぞ。」
僕は営業君にそう言ってビールを勧めたが営業君はどうしてもビール瓶を下ろさなかった。
「僕は今度佐山さんと一緒に仕事が出来るのがとてもうれしいんですよ。ずっと憧れていましたから。それにこれから僕の上司になるんですからどうぞお先に。」
営業君はどうしても譲るつもりはないらしかったので僕は仕方なくビール瓶を下ろしてコップを手にして先にお酌を受けてから改めて営業君に注いでやった。でもずっと前から僕、じゃなくて佐山芳恵に憧れていたってどういうことだろう。以前の佐山芳恵と今の佐山芳恵ではほとんど女性としての方向が反転するくらいに変わっているんだけど。もしも元の佐山芳恵に憧れていたのなら今の僕に寄り添っても失望するだけだと思うのだが。
僕自身佐山芳恵の顔はきらいな類の顔ではないが美人かと言われたら一も二もなく首を傾げてしまうだろう。それよりも女土方やマルチリンガルのお姉さんの方が客観的に見てもきれいな部類に入るだろう。しかしそれもいずれが菖蒲杜若、五十歩百歩の主観の世界かもしれないが。
顔の話になったのでついでに言うと佐山芳恵の顔が自分の好みの顔で良かったと思う。以前にだんなや子供に姑などがいる家の奥様や新婚家庭の人妻にならなくて良かったなんてことを言ったことがあるが、入れ替わった女の顔が自分の好みじゃない女だったとしたらこれもかなり辛いものがあると思う。何と言っても毎日見なくてはいけないものなのだから。別に美人に乗り移らされて男に追い掛け回されても僕にとっては迷惑なだけなので願い下げだが、それよりも佐山芳恵の姿かたちがどちらかと言えば僕の好みの女だったことには感謝している。
それから僕は一応礼儀と思い、社長以下役員のお歴々に挨拶を兼ねてお酌をして回って自分の席に戻ると営業君がそばに寄って来た。本当は寄って欲しくないのだけれどあからさまに口や態度に出すわけにも行かないので仕方がないからビールを注いでやった。
「いや、僕はですね、佐山さん、あなたが総務の係長と交際をしていると聞いた時には足元の大地が崩れ落ちそうなくらいショックでした。目の前が真っ暗になって思わずしゃがみこんでしまったくらいです。でもこんなことを言ってはいけないんでしょうけど最近佐山さんが総務の係長と別れたと聞いた時には垂れ込めていた暗雲が一気に晴れて輝く太陽を見たような心地がしました。僕もまたあなたとお付き合いが出来る資格が戻ったんだと思うと本当にうれしくて。今回、同じ職場で勤務することが出来て本当に喜んでいます。もちろんあなたは立場的には私の上司になる方ですからその点は尊重しますけど。」
「ええ、尊重してね。私は職場が仲良しクラブだとも同好会だとも思っていないわ。職場は仕事をするところでそれ以外の何ものでもないわ。あなたが私のことをそんなに思ってくれるのは光栄だけど私は男性とお付き合いしていこうなんて気持ちは更々ないから覚えておいてね。」
僕はつきまとわれるのが嫌だったのでかなりきつい口調できついことを言っておいた。ぼくとしてはこれで営業君に釘をさしたつもりだった。
「いいなあ、そのきつさ。そういうあなたが好きなんです。」
営業君は満面笑みを浮かべて僕を見た。
『お前な、お前が好きだったという佐山芳恵はもっとかわいらしい女でこんなことは言わなかっただろう。一体お前は人間のどこを見ているんだ。そんなことでよく営業が勤まるな。第一僕は男で今はそこにいる女土方と同棲しているんだからお前が入り込む余地はないんだよ。仮に僕が一人だったとしても男なんかとお付き合いするのは殺されてもごめんだ。分かったか。』
満面笑みの営業君にこのくらい言ってやれればいいんだろうけどもしかしたらこいつには何を言っても無駄かもしれない。僕はその場を離れて女土方のところに席を移した。