そうかと言って途中で好きな相手が出来てしまってどうしてもそっちが良くなってしまったらそれはそれで仕方がないんじゃないかとも思う。当然今の社会制度や道徳観に照らせば良くないことなのだろうからそれなりの制裁を受ける覚悟が必要だろうが、それも生き方なんじゃないかといい加減にそんなことを思う。ただし注意を要するのは恋愛感情が芽生える時は常に突然で急激であり、しかもそれにのめり込み易いが、信頼関係はそれなりに時間もかかればお互いの努力も必要で信頼関係が生まれていることには案外気がつき難いということだ。
どんなに好きな相手だからと言っても一緒に暮らしてうまく行くものでもないし、それほど強い恋愛感情がなくても一緒に暮らしてみれば結構うまく行ってしまうなんて場合もある。この年になると恋愛と生活は別物じゃないかと思うようになった。だから男は恋愛や外出する時の妻、家事や子育てをしてくれる妻、そして夜の娼婦のような妻と妻が三人くらいいれば良いなどと勝手なことを考えてしまう。男なんていうのはどうしようもなく節操のない生き物かもしれない。
それでは女がまともな生き物かというとそうとも言えない。男の場合は節操がない割にはそれなりに周囲の状況を見ながら物事を進めようとする。平たく言えば他人様を意識しているということだ。ところが女の場合はある限界を超えると自分以外は何も見えなくなってしまう。
痴話喧嘩で外に飛び出して叫び出すのもその類なんだろう。男にはあの真似は出来ない。どんなに追いつめられても男には恥という概念がある。ところが女は突然それが消滅してしまうことがある。こうなると何を言っても無駄で手のつけようがない。当のご本人には周囲の状況は全く見えていない。自分の感情に任せて行動しているだけで理性も何もない。多分そういう状態で佐山芳恵も夫を振り切って馬の骨氏に走ったんだろう。
こういう傾向は進む時ばかりではなく引く時も同様だ。女は突然自分の内側だけで物事に見切りをつけて身を翻して去って行く。男はなまじ周囲が見えるばかりにだめと分かっていても何とか繋ぎは取っておこうとずるずると関係を引きずることを考える。この辺は男のずるいところでもありばかなところかも知れない。そうしてお互いに相手の心が読めなくなるこの時期が男女の間に決定的な破局が生じる時なのかも知れない。
そんなこんなと考えてみたが佐山芳恵が馬の骨氏に走ったと言う事実を知ったことで僕はどうも落ち着かなかった。しばらくは気を紛らわせようと資料の検索をしていたがとうとう我慢が出来なくなって女土方に電話をかけた。
「ねえ、今日はこっちに来れない。それとも私があなたのところに帰ろうか。ちょっと聞きたいことがあるのよ。」
「うん、私がそっちに行けばいいのね。ねえ、話って彼のこと。今日お昼に会ったそうね。何かあったの。」
女土方は情報も速いしなかなか鋭い。
「ちょっとね。だからあなたに聞きたいことがあるの。時間を取ってくれないかな。お願い。」
「いいわよ、私がそっちに行けばいいのね。それともこっちに戻る。」
「こっちに来てくれた方が私には都合がいいかも。いいかな。」
女土方はすぐに承知してくれた。それで少し落ち着いた僕は何とか午後の仕事をこなすと定時きっかりに職場を出て真っ直ぐに澤本家に戻って女土方を待った。クレヨンは思い切り機嫌の悪い僕に恐れをなして自分の部屋に入ったまま出て来なかった。
女土方は午後八時近くになってやって来た。手にはバッグを持っていて僕の顔を見るなり「今日は泊まって話を聞いてあげるから大丈夫よ。」と言って僕を安心させた。
「彼女は。」
女土方はクレヨンの姿が見えないことに気を使っていた。
「私が機嫌悪いから逃げ出したわ。自分の部屋にいるんじゃないの。」
女土方は怪訝な顔をした。
「どうしたの。そんなに動揺して。何か言われたの。まさか彼に気持ちがあったなんてことはないわよね。」
馬の骨氏に気持ちなんてあるわけないだろう。僕はゲイじゃない。だから女のお前にくっついているんだろう。
「あのね、あなたに聞きたいのは私がしたことをどう思うかってことなの。ねえ、どう思う。」
女土方はちょっと首を傾げた。僕の言うことが理解できなかったのかも知れない。
「つまりね、彼とのことよ。どう思う。」
「彼とのことって何を答えればいいの。急にそう言われても何と答えて良いのか分からないわ。どうしたの、何時も冷静なあなたがそんなに動揺して。彼があの子を選んだのがショックだったの。」
そんなものショックも何もあるものか。誰でも勝手に好きなのを選べば良い。僕が聞きたいのはどうして佐山芳恵が夫を捨てて馬の骨氏に走ったのかその辺のことだったが、いくら何でもそんなことは聞けないだろう。僕自身は佐山芳恵が離婚してから馬の骨氏とくっついたのだろうと思っていたので夫を捨ててと言うのは衝撃だった。
「あなた知ってるでしょう。私と彼のこと。私がしたこと、どう思う。」
「え、どうってもう終わったことでしょう。どうしてそんなことを聞くの。」
「彼女に言われたのよ。私が夫を捨ててまで寄り添った男の人をそんなに簡単に諦められるはずがないって。何だかその言葉が気になって。私自身はもう決着をつけたことだと思っていたんだけど。」
「未練があるの。」
女土方の目が僕を射抜くように見た。
「今更誰を選ぼうが彼に未練なんかないのよ。もう終わってるんだから。でもね、夫を捨てて彼を取ったことをあなたがどう思っているのか聞きたいの。」
女土方は『ああ、そういうことなの』とでも言いたそうに何度も軽く頷いた。
「どう思うかって言われてもねえ、あなたがそれで良いと思ってしたことなんでしょうから私にはそのことを何とも言えないわ。一般的に言えば良いことじゃないんでしょうけど。でもだんな様の方にもいろいろあったんでしょう、詳しいことは分からないけど。
あのね、私はあなたとあの人ってお似合いだと思っていたわ。あなたは少し甘えん坊さんだったけど、あの人は細々とよく気がつく人で優しそうだったし、他人に何くれとなく面倒を見てやることが好きな人だったからちょうどいいのかなって。だから周囲ではいろいろと言う人たちもいたけど私はそれでいいのかなって思っていたわ。世間なんて何をしてもあれこれ言うものだしねえ。
それからしばらくしてあなたがあの人を簡単に振ってしまったらしいと聞いた時は正直驚いたわ。きっと皆驚いたんでしょうし、一番驚いたのは彼なのかもしれない。でもあんなに似合っていたのに何でだろうって。
そんな興味から注意してあなたを見ていたら『ねえ、本当にあなたってあの芳恵なの』って言うくらい急に人が変わったじゃない。本当にあなたが言ったように人が入れ替わってしまったんじゃないかって言うくらいに。そう考えるのが一番妥当かなって思うくらいの変わり様だったものね。人が入れ替わるなんて実際にはそんなことあり得ないけどね。
結果的に私にはその方が都合が良かったんだけどあなたやあの人にはどうだったのかしらね。でも外見的な結果としては夫を捨てたあなたが恋人を総務の彼女に取られて罰を受けたってことになるんだからこれで一件落着ということでいいんじゃないの。今少しは周りがあれこれ言うかも知れないけど彼もいなくなってしまうしすぐに静かになると思うわ。気にしない方がいいわよ。」
その時ドアが開いてクレヨンがドアに半分身を隠しながら様子を窺いに来た。
「あら、どうしたの。入っていらっしゃいな。」
女土方が声をかけるとクレヨンはそっと部屋に入って来て僕から離れたところに場所を占めたが、何も言わずに黙っていた。。