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 クレヨンはしばらくの間大声をあげながら逃げ回っていたが、いい加減疲れてきたのか動きが鈍って来た。そこをクレヨンの腕をつかんでベッドの上に投げ出そうとしたが僕の方も本気ではなかったし寝入り際に散々駆け回って疲れていたのとクレヨンが抵抗したので二人でもつれ合ってベッドに倒れこんだ。

 クレヨンの上に乗って怪我をさせないように僕が下になって倒れたが、僕の上に乗ったクレヨンと目が合った瞬間に動きが止まった。クレヨンが真顔になって僕を見詰めていた。僕たちはそのまましばらく動かずに見詰め合っていたがクレヨンが小さく「好き」と呟いて顔を近づけて来た。

 まさかこんな形でこいつに好きだと言われてキスまでする羽目になるとは夢にも思わなかったが、クレヨンの顔が何時になく真顔だったので跳ね除けたり茶化したりしないで軽く抱いたまま受け止めてやった。僕たちはしばらく抱き合った後、僕の方からクレヨンを軽く押して体を離した。

「さあ、お遊びはこれくらいにして寝よう。明日も仕事よ。」

 クレヨンは黙って頷くと僕の横で毛布を被って丸くなった。そして僕が毛布や枕を整えて体を伸ばすとクレヨンはまた体を寄せてきて「私は一人じゃないよね。」と言うとすぐに軽い寝息を立て始めた。

 最近は僕自身人と触れ合って淋しさを紛らわすよりも一人で生きて淋しさに耐える方が生き易くなってしまったが、思い出してみれば人恋しさに苛まれた時期もあったことは間違いなかった。しかしそんなに簡単に心を許して分かり合える他人に出会える可能性は極めて低いと言わざるを得ないし、結局誰も淋しさを心の奥に押し込めて何かに紛らわせて生きているのだろう。

 バカとかサルとか散々言ってきたがクレヨンも思春期に母親を亡くし、父親も仕事で不在がちでは誰もがうらやむような環境に生きてきたとは言え人との触れ合いという点では不遇だったんだろう。そう思うとクレヨンが少し身近に思えて来た。

 それにしても佐山芳恵の人生は一体どうなっていくんだろう。彼女の人生はこの数ヶ月で方向転換どころか次元を超越して宇宙の彼方に飛び出したくらいに変わったしまっているだろう。このまま戻らずに僕がこの体で生きていくのならそれはそれで良いのだろうが、またある日何かの拍子で突然本来の佐山芳恵に戻ってしまったら、佐山芳恵にとってその衝撃たるや大変なものだろう。

 僕にしてもとんでもないほど方向が変わってしまった元の僕の人生を引き受けろと言われても困り果ててしまうかもしれない。ここまで何とか持ち前の好奇心と楽天的な性格で持ち堪えて来たがこれ以上の突発事案に耐えられるかどうかも分からなかった。

 そう言えば話が脇道に逸れるが好奇心を持ち続けるということは脳の老化防止に役立つらしい。年を取ったから覚えられないとか新しいことに対応できないという人を見かけるがそれは面倒なことをしたくないから年を言い訳にして避けているだけのように思う。

 何事にも新鮮で旺盛な好奇心を以って臨めば多少のハンディはあるのかもしれないがほとんど若い頃と同じように新たな局面にも対応出来るのだと思う。

 こんなことを言うのはまた下品と言われそうだが、男性の生殖機能というものは二十代の若者も八十代の老人も機能的には全く差がないのだそうだ。要は新鮮で旺盛な好奇心が脳からの指令信号としてその部分に伝わるかどうかの問題なんだそうだ。それだから新鮮な興味を持ち続けることが大切だと言うのではなくこれはあくまでもその一例だと言うことをご理解願いたい。

 そうこうしながら先のことをいろいろ考えていると眠れなくなりそうなので当たって砕けろの精神で今を生きるほかはないという結論に達した頃には眠りに落ちていた。

 この日以来僕とクレヨンの間は急速に接近した。二人の仲がと言うのには語弊があるかもしれない。クレヨンが僕に急速に接近したと言うのが正確な表現である。世間では『同じ釜の飯を食う』という言葉がある。僕のような孤立型の人間には誠に煩わしく傍迷惑な言葉ではあるが、確かに同じ屋根の下で同じ物を食って生活をするというのは短時間で人間関係を緊密にするには効果的な方法かもしれない。ただし間違うと人間関係が修復不能な状態にまで破壊されることもあり得るが。

 僕にとってはクレヨンのような人間は相容れ難い類の人間であることには変わりはないが、この間の晩に追いかけっこをした時のクレヨンの顔や笑い声を思い出すと近づいてくるクレヨンを無下に跳ねつけるのがかわいそうになって来た。

 どうもこいつも淋しい類の人間でそれを押し隠すために強気に振舞っているような気がして来た。僕は紳士ではないが、やはり弱者優先はこの世の中において必ず守られなければならない掟だと思う。クレヨンが僕に比較して弱者なのかどうかは若干の疑問がないでもないが、やはり若年者として保護すべき対象なのだろう。

 一方のクレヨンはあれ以来すっかり僕になつきまくってまるで飼い主にじゃれ付く子犬のように僕の周りを跳ね回るようになってしまった。確かにこいつも保護すべき対象なのかもしれないがじゃれに付き合ってやると言った覚えはないとばかりにちょっと冷たくあしらうとこやつ一人前にそれは悲しそうな顔をするのだった。こんなことなら以前のように反発していてくれた方が僕にはどれほど楽だったかと思うと今の状況が少しばかり恨めしかった。