その年の暮れにご主人から『最後のお別れに来てやってください。』と連絡があって病院に駆けつけたけれど体中にチューブを挿され人工呼吸器を口に固定されて虚ろな目を開いて横たわる彼女を見てただ立ち尽くすだけで言葉もなかったわ。

 彼女の葬儀は締め付けられるような寒い日だったわ。彼女のご主人の強い希望で火葬された彼女のお骨をご主人と二人で拾って骨壷に納める時でさえ涙も出なかった。何だか心の中に大きな穴が開いてしまって自分の大切なものがその穴からどんどん流れ出て行ってしまうのにそれをどうしようもなくただ呆然としているしかなかったわ。」

 僕は話しながら涙が頬を伝って流れ落ちるのを感じていた。たとえ体が入れ替わっても友人が死んだのはこれまでの人生で何よりも一番辛い思い出だった。女土方とクレヨンは緊張した面持ちで黙っていた。

「その頃夫との関係が込み入っている時で通夜から帰って来て高熱を出して立っているのもままならない私に『あれをしろ、これはどうした。』と無神経に要求する夫にも愛想が尽きてしまったわ。彼女が死んで身の置き所のないような淋しさに苛まれながらそれでも少しづつ彼女とのことを整理しようと思い始めたのは本当に最近になってからのことよ。それまでは彼女のことは何も手につかなかったわ。夫と別れたことも余分な負担がなくなって気持ちが軽くはなったけど連れ合いがいなくなったことが悲しいとか淋しいなんて思いもしなかった。

 彼女との仲はほとんどフィフティ・フィフティで貸し借りなしだったけど一つだけ心残りなものが見つかったのよ。彼女は神とか信仰とか本当に真面目に考えようとしていたのに私はそれを茶化すだけで取り合わなかったことが今になっては悔やまれてね。どうしてあの時彼女と一緒に考えてやらなかったのかってね。だからそのことを考えてみようかと思ったのよ。自分なりに神とか信仰とか、それが一体どういうものか。」

「あなたも辛い思いをしてきたのね。」

女土方がぽつりと言った。

「他の人がどう思うかは知らないけど生きるってことは何かしら自分も他人も傷をつけていくことじゃない。それが悪意や故意ではなくてもね。何十年も生きていればあちこち傷だらけでそれでも流れる血を鎧で隠して自分の身を護るために戦わないといけない。こんな考え方をするのは私が少しおかしいからかもしれないけどね。だから心を許して鎧を外せる場所が欲しいの。」

「かわいそう。私だったら一緒に死んじゃうかも。」

クレヨンがべそをかいたような声で言った。

「そうね。でも私はそんなことは考えなかったから、死んだら向こうの世界で一緒になれるなんて思うほどロマンチストじゃなかったみたい。」

「そういうところが佐山さんは強いと思うわ。私なんかそんなに強くなれないわ。」

 クレヨンはそう言ってバスルームに入って行ったが、この世の中に無知より強いものはないということをこいつは知っているんだろうか。僕たち二人きりになると女土方が僕を真正面から見据えて言った。

「ねえあなたは一体誰なの。」

「え、私は佐山芳恵よ。他の誰でもないわ。」

「そう、姿かたちは間違いなく佐山芳恵、でも私が知っている佐山芳恵とは全く別人。」

「人は時として変わるものでしょう。そうじゃない。」

「そうね、あなたが誰だろうと今の私には大事な人なんだからそれでいいのかな。」

 女土方はあっさり引き下がった。あまり真顔で的を得たことを言うのでどきりとしたが、こればかりは誰が何と言おうと証明出来るものでもないだろう。そこにクレヨンが戻って来た。

「佐山さんは神とか信仰とか考えたんでしょう。ねえ神様はいると思う。」

 こいつが「神が存在するか」と聞いているレベルはカッパがいるかとかネッシーがいるかとかそんなレベルに違いない。もっともクレヨンを見ているとカッパくらいはどこかにいそうな気になってくるが。

「乱暴な言い方をすればあなたが神はいると信じれば神は存在するわ。私はそう思うわ。」

「じゃあそう信じれば私のお願いをかなえてくれるかな。」

 どうしてこのサルはこうもレベルが低いんだろう。お前は『天は自ら自分を救おうとする者を救う。』という大原則を知らないのか。太平洋戦争末期の帝国海軍も天佑神助を確信するだけでその戦法に何ら改革も加えなかったから圧倒的な戦力差があるアメリカ海軍に全軍突撃しては撃破されていたじゃないか。ただ天佑神助を確信するなんていう神頼みでは結果は見えているんだよ。

「あのね神はいくら頼んでも奇跡を起こして人を救ってくれたりはしないと思うわ。私自身はそこまでは信じられないけれど神が見守っていてくれる、自分は一人じゃないと思えるだけで穏やかな気持ちになれる人がたくさんいるみたいね。

 生きていると自分ではどうしようもないことに突き当たることがあるけどそんな時に神の存在を信じてそれが神の意思だと自分を納得させることが出来ればきっと救われた気持ちになれたり強くなれるんだと思う。

 信仰ってね、結局自分自身がどのくらい信じることが出来るかって言うことじゃない。信じればたとえこの身は救われなくても魂は救われるかもしれない。いろいろ考えたけれど私にも良く分からないわ。でもそれが信仰だと思うわ。結局人間ってそんなに強くはないのよね。」

「なんだあ。いくらお願いしてみても願いをかなえてくれないのか。じゃあ意味がないわね。」

「要は現実の世界の話じゃなくて自分の内面の問題だと思うわ。自分が神と共にあると信じてそれを意味があると思うかどうかは個人の価値観によるんでしょう。客観的に神の存在を証明することは出来ないわ。」

 クレヨンは何だかつまらなそうな顔をしていた。神様に頼んで良いことがあるのなら誰も好き好んで嫌な仕事なんてしないだろう。

「神とか信仰とか本当に難しい問題よね。特に日本は宗教と生活がかけ離れているし、宗教に向き合う時はお祝い事や冠婚葬祭くらいしかないんだからどうしても特殊なものって印象が強くなったり苦しい時の神頼みになってしまうけど本当は自分の内面と向き合うのが宗教とか信仰なのかもしれないわね。」

女土方はやはりまともなことを言う。クレヨンとは大違いだ。

「お友達のことを思い出したら何だか淋しくなっちゃったな。しなくてもいい経験はしたくないわね。」

僕は一つ大きく伸びをした。

「もう時間もずいぶん過ぎているわね。そろそろ休もうか。」

 サルも僕につられたのか大きなあくびをして立ち上がるとよろよろとベッドに倒れこんだ。女土方だけが何時もの淡々とした表情を崩さなかった。

「あなたは外見は何となくよそよそしくてそして何でも跳ね返しそうに強いけれど、でも本当はとても繊細で優しい人ね。」

 女土方が僕に向かって笑顔でそう言った時にはクレヨンはもう寝息を立てて眠っていた。僕は飲み食いの後片付けをしてから休もうとして洗面所で女土方と鉢合わせした。本当はベッドで思い切り抱き合いたい気分だったがクレヨンがいるのであまり派手にするわけにもいかず洗面所のドアを閉めてから女土方を抱き寄せた。僕は当然男として女土方を抱いているつもりだったが洗面所の大きな鏡に映った僕たちの姿はやはり男女の抱擁とはかけ離れた姿だった。でもそんなことかまうものか。

 ずいぶん長い間抱き合ってから僕たちはベッドに戻ったが、クレヨンはもうだらしなく寝込んでいたので結局僕と女土方が同じベッドを使うことになった。明かりを落として暗くなったベッドの中で僕たちはまた抱き合った。もしかしたら女土方はもう休みたいと思っていたのかもしれないが、僕は彼女を離す気にはならなかったし、彼女も丁寧に僕に応じてくれた。女土方の柔らかさと温もりが鎧の下でささくれ立った心を癒すようで心地よかった。