会社に戻ると間もなく北の政所様が部屋に現れた。

「社長から連絡があったわ。日ごろから負担をかけているのにそれに加えてとんでもない迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい。これは社長から言い付かったので。タクシー代ということなので受け取って。こんなものじゃああなたの苦労に報いるなんてとても足りないことは分かっているけどとにかく近いうちに社長と相談して必ずそれなりのお詫びはするから許してね。」

 北の政所様も白い封筒を差し出しながらこれまた丁寧に頭をさげた。テキストエディターのお姉さんはほとんど凍りついたかのように身動ぎもしないでこの光景を見守っていた。しかし、テキストエディターのお姉さんでなくともこれまでの事情を知った上に北の政所様のこの態度を見れば動きが止まってしまうかも知れない。

 もうほとんど疑う余地はない。あのクレヨンザルは社長と北の政所様の隠し子だ。こういう他人様のことには比較的冷静な僕もさすがに胸が高鳴ってしまった。きっと近親なるがゆえに劣性遺伝が強く出てあんなサルのような娘が出来てしまったのだろう。出来の悪い子ほどかわいいと言うが社長も北の政所様も人の子、人の親だななんてほとんど根拠もない遺伝理論ですっかり納得してしまった。

 家に帰ってその日の顛末を女土方に話すと女土方もすっかりクレヨン社長の隠し子派になってしまった。しかし知人の娘なら人事の担当者を寄越すなり両親に連絡するなりさせればいいことでわざわざ社長が自分から出向くなどと言うのは隠し子理論に現実味を与えるには十分だった。しかも間髪を入れずに北の政所様がタクシー代を持って僕のところに頭をさげに来るなんて。

「そうなんだ。そこまでねえ。まさかとは思ったけどそんな話を聞かされるとそうかなって思ってしまうわね。でもずい分出来の悪い娘さんみたいで社長もお困りでしょうね。あなたも大変だったわね。」

「大体六本木あたりで引っかかる外人なんてねえ、危ないのが多いから薬でもやって捕まったのかと思ってびっくりしたわ。不法滞在だけでほっとしたわ。でもあの子も何を考えているんだか。日本で暮らせないなら向こうの国に行って暮らすなんて。どんなところか知っているのかしらね。その向こうの国というのが。」

 この世には平和な国よりも平和ではない国の方がはるかに多いということをあのクレヨン娘は知っているんだろうか。白人の植民地支配の都合で決められた国境の中に多数の民族が複雑に入り混じって闘争を繰り返し、そのため社会制度は崩壊し、産業は育たず、教育は廃れて貧困が社会を覆い、人々は自分が生きるために巷に溢れる自動小銃などの武器を手に取って他人を蹂躙し略奪を繰り返す世界があることを。今その手に中にある武器が神であり法律であると信じて振舞う人間達のことを。

 僕は決して自分のことを聖人君主だと思っているわけではない。どちらかと言えば悪党に近い人間だからこそこうしていきなり女の体に乗り移らされてしまってもずうずうしく生き抜いていられるのかもしれない。それでも人の命が脅かされ子供が飢えに苦しんでいるなどと言う記事を目にすると飽食の世界に住んでいる身分でも心が痛む。

 世界が仲良く平和になんてことは思わないが、せめて理不尽に命を脅かされたり飢えに苦しんだりすることのないようにできないものかと思う。しかしこれだけ文明が進歩しても人々に幾ばくかの食物を与えることがいかに難しいことか、これには与えられる側の問題がないとは言えないようだし。

 クレヨンもそういうことを理解した上で愛や恋を語るのならそれはそれで立派なことかも知れないが、どうもそうとは思えない節が多々見られるようだし困ったものだ。また明日からあれの面倒を見るのかと思うと頭が痛くなってきた。

 翌日出社したが、クレヨンは出て来なかった。また遅刻かと思っていると始業時間が過ぎた頃、部長から「今日澤本君は休むそうだ。」と電話が入った。さすがに警察沙汰になって落ち込んでいるのかと思ったが、そんなに甘いクレヨンでもあるまい。また何か企んでいるんじゃないかと思っていると程なく社長から僕の携帯に電話が入った。

 北の政所様が迎えに来るので一緒に出て来て欲しいと言うことだった。どうもいよいよことの真相が明らかになるようだ。他人事ながら不謹慎にも僕は何だかワクワクしてしまった。

 僕は迎えに来た北の政所様と一緒に外に出るとタクシーを拾った。北の政所様はタクシーの運転手に東京の有名な高級住宅地の名前を告げた。途中何回か方向を指示しながら車を走らせて最後に車が停まったのは邸宅と呼ぶのがふさわしい家の前だった。北の政所様は料金を支払うとさっさと車を降りてお屋敷の門の前に立った。

「社長は中で待っているわ。さあ入りましょう。」

 北の政所様に促されて門をくぐって中に入った。玄関の呼び鈴を押すとお手伝いなのか中年の女性が出て来て家の中へと案内してくれた。応接間に通されて出されたコーヒーを飲みながら部屋の中を見回した。落ち着いた洋風の内装にシンプルだが恐ろしく高そうな家具が品よく配置された応接間だった。
しばらくすると社長が入って来た。

「こんなことでまた迷惑をかけて申し訳ない。でもどうしても佐山さんに頼みたいことがあってここに来てもらったんだ。どうか話だけでも聞いて欲しい。」

「クレヨ、いえ澤本さんのことですか。」

僕が聞くと社長は黙って頷いた。

「聞いておきたいことがありますがよろしいですか。社長と澤本さんとはどんな関係なんですか。」

「うん。」

社長は一言そう言って北の政所様を見ると黙ってしまった。やはりこれはかなり怪しい。

「あなたはあの子が私達の子供だと思っているでしょう。でもそれは違うわ。あの子はこの家の正真正銘のご令嬢よ。父親は金融界ではそこそこ有名な人でうちの会社の大株主でメインバンクの頭取、もっともその額は総資産から見れば微々たるものだけどね。そして社長と私の共通の恩人。今は仕事で外国に出かけているけどね。

 あの子の母親はあの子が中学生の時に病気で亡くなっているわ。父親は仕事で不在がちであの子の面倒はほとんど家庭教師やお手伝いさんが見ていたので彼女は彼女なりに辛いことがあったんでしょう、それからおかしな方向に外れてしまったの。

 おとうさんは心配していろいろ手を尽くしたのだけれど結局良い方向には戻っていないみたい。周りが手を尽くせば尽くすほど彼女には逆に満たされない苛立ちみたいなものがあるのでしょうね、どうしても反発してしまうのよ。

 昨夜父親に電話をしたらとても心配して『誰かそばで面倒を見てくれる人がいないだろうか』って。もう分かるでしょう。私達があなたにお願いしたいことが。あなたなら私達も安心だし。」

 つまりここであのクレヨンを面倒見ろということか。そんなこと真っ平ごめんだ。第一僕は男だってことを知っているんだろうか。幾らなんでもそんな厄介なことは思い切り断ろうと思ったところに塔のご本人が入って来た。

「ねえ佐山さん、あなただったらしばらくここに置いてあげてもいいわよ。私がジョニーと一緒に出かけるまでなら。」

このサル本当にご先祖様の故郷に行く気でいやがる。

「ふざけるんじゃないわよ。誰があんなのそばになんかいるもんですか。大体人に物を頼むときはその落書きみたいな化粧を洗い流して素顔で真面目に頼むものよ。大体何がジョニーと一緒に行くなんて言ってるのよ。

 あなたはそのジョニーの国がどんな国か知っててものを言っているの。あなたが住んでいるこの家を一月維持するお金で何千人が生活できるような国なのよ。あなたの顔に塗りたくったその落書きみたいな化粧をするお金で一つの家族が一週間も生活していけるような国なのよ。あなたにとっては歯牙にもかけないようなわずかなお金をめぐって人が殺されているようなそんな国なのよ。

 あなたなんかが行ったらその日のうちに身包みはがされて強姦されて殺されてハゲタカの餌にでもされているわ。ばかも休み休み言ってなさいよ。」

 そこまで言い終わったらクレヨンに顔を殴られた。北の政所様に比べれば大したことはなかったが、武力行使をするには丁度いい口実になった。僕はクレヨンの髪をつかむと叫びまくるのもかまわずにお手伝いに「洗面所はどこなの。」と聞くと呆気にとられているお手伝いを尻目にクレヨンを洗面台まで引き摺っていった。洗面台と言っても普通の家なら十分に一部屋として使えそうなくらい広かった。

 そこで適当に石鹸を取り出すとクレヨンの顔に塗りたくって思い切り洗ってやった。そして頭からシャワーをかけて流してからタオルを取り出して頭を丸ごと拭いてやって客間に連れ戻して放り出した。