警察には三十分ほどで着いた。電話で言われたように受付で「植木課長を」と言うと三階に行くように指示された。警察なんて楽しいところではないのは承知の上だが、それにしても何ともいえない雰囲気だった。

 刑事第一課というプレートのかかった部屋の入り口で「失礼します。」と声をかけると若い刑事が「はい、何ですか。」と答えた。

「先ほど植木課長さんからお電話を頂いた佐山ですが。」

 ちょっと雰囲気に気圧されて控え目に声を抑えて名乗ると「ああ、佐山さん、お待ちしていました。」と中年の男性が部屋の真ん中の机から立ち上がった。

「ちょっとお話したいことがありますのでどうぞこちらへ。」

 その中年男は僕を招いて小部屋に案内した。どうもこれが刑事ドラマで有名な取調室らしい。その部屋の奥、つまり犯人が座るのであろう場所に座られた。向かい側に課長が座るとそこに若い刑事さんがコーヒーを運んで来た。

「先ほどもお話したように澤本さんは今朝方不法滞在の外国人と一緒にいるところをうちの警察官に声をかけられてここに連れてこられたんです。それで事情をお聞きしようとしたんですが、どうも英語しかお話にならないようでしかもずい分興奮されているようでして。

 お帰りいただくことは問題ないのですが、場合によっては不法滞在助長罪などに問われる場合もありますので今後一緒にいた外国人の不法滞在についてお話を伺わなくてはいけないこともあります。それで一応こちらがお呼びした場合はご出頭いただくということで身柄をお渡しするという書類に書名を頂きたいのですが。いかがでしょうか。」

前半は丁寧だったが後半はやや脅しの入った声になって課長さんは僕を呼んだ用件を伝えた。

「分かりました。ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。私でよければ出来ることはいたしますが、彼女はここ数日間だけ私の職場に配置になったアルバイトのような女性ですので私も彼女の細かいことは知りません。上司に連絡をして人事に確認させますのでしばらくお待ちいただいてよろしいでしょうか。」

「そうなんですか。それはかまいません。若し必要なら私の卓上の電話をお使いください。」

僕は自分の携帯を取り出すと部長に電話を入れて事の顛末を説明した。

「事情は分かった。人事に確認してみるからしばらく待ってくれ。僕も澤本君のことは詳しくは聞いていないんだ。結論が出たら折り返し電話を入れる。」

 部長はそう言うと電話を切った。僕は課長さんに「折り返し回答が来ますので。」と伝えてまた椅子に座った。

「澤本さんはずっと外国にいた方ですか。ずい分英語がお出来になるんですね。うちにも英語をしゃべる警察官はいるんですが、話させたら余計に興奮してしまって。日本語はだめなんですか。」

 どうもずい分英語でわめき散らしたようだ。こんな野ザルを相手に警察も気の毒に。しかしここにいる人たちはもっと凶悪な動物のようなのを扱っているんだろうから。ところが課長さんは苦笑いしながらこんなことを言った。

「暴れたり凶暴なのは私共もなれているんですが、どうもあのような女性はねえ。」

 しかしクレヨンなんかを扱いかねているのは別に警察の皆さんだけではない。こっちもほとほと困り果てているんだから。

「あの子、外国にもいたようですけど詳しいことは知りません。英語はしゃべりますが、ずい分偏った英語であまり高等な英語を話すわけではないようです。でも本当にご迷惑をおかけしました。お詫びします。」

 その後あの野ザルのばかがと言おうとしたら電話が鳴った。部長からだった。電話に出ると「佐山さん、結局社長が『そっちへ行く。』と言って今こっちを出たのでよろしく頼む。僕にもあの子のことは良く分からないんだ。手間ばかり押し付けて申し訳ないが。」と言って電話は切れた。

 社長が来るって。こんな野ザルのためにここまで気を使うなんて。それってもしかするともしかするんじゃないのか。まさか本当に北の政所様の子供なのか、このサルは。そして父親は、本当に社長なのか。
僕は取り敢えず刑事課長さんに「当社の社長が身元の引受人としてこちらに向かっていますから。」と告げて社長の到着を待つことにした。

 社長は三十分ほどで姿を現した。僕はやや好奇心を膨らませて成り行きを見守ったが、社長は丁寧に刑事課長さんに謝罪してから説明を聞いてクレヨンの身柄を引き受けるための書類に署名した。
その後女性警察官に付き添われてクレヨンが姿を現したが、この期に及んでまだ警察を訴えるだの恐るべき無知振りを顕わにしてわめき散らしていた。

 こんなサルにも及ばないようなのに振り回されているのかと思うとなんだか無性に腹が立ってきて髪を引っ掴んで洗面所で落書きのような化粧をたわしで洗い流してやりたくなったが、警察でそんなことをしてこっちが捕まってしまうといけないと思い、爪先立ちで思い止まった。

「もういい。静かにしなさい。」

 社長はクレヨンの肩に手を置くと穏やかな声で言った。そして僕の方を振り返ると「佐山さん、いろいろ迷惑をかけて申し訳なかった。後は僕が始末するので会社に戻ってください。連絡しておくのでタクシー代は秘書から受け取ってください。」と言うとクレヨンの方に手をかけてそのまま抱きかかえるように階段を降りて行った。

 僕はその姿を見送りながら立ち尽くしてしまった。まさに不出来な娘をいたわるようなその態度はいやでもこのクレヨンが社長にとって極極身近な人間であることを無言のうちに物語っているようだった。