僕はテキストエディターのどうにも救いようもないといった風情に笑い出してしまった。話が一段落したところでクレヨン娘が入って来た。

「澤本さん、今日は残業よ。いいわね。」

僕は追い討ちをかけるように言いつけた。

「ええ、どうして。私は嫌です。時間になったら帰ります。私には私の生活があるもの。」

案の定クレヨン娘は反発してきた。

『この世の中ではな、権力を持つ側の方が圧倒的に強いんだぞ。よく覚えておけよ。』

僕は心の中でそう呟いてからクレヨン娘に言ってやった。

「あなた、今日は遅刻してきてその上に勤務時間中に私用で外したでしょう。その分よ。二時間の残業で許してあげるわ。これからは遅れたりしたら残業で補ってもらうから。分かったわね。」

 クレヨンに残業をさせれば必然的に自分も残ることになるのは承知の上だった。そうでもしなければこの野ザルには分かるまい。

「それからその資料の翻訳は明日中には終わってね。他にも色々やってもらうことがあるから。」

クレヨンは嘲るように笑った。

「こんな資料でも翻訳がないと読めないのに語学を教えるの。」

これが彼女の反撃なのかもしれない。そんなレベルの反撃なんか先刻承知だ。

「そのくらいならわざわざ訳してもらわなくても私でも読めるわよ。でもねここには言葉を専門としない人たちもたくさんいるわ。例えば総務とか査定担当とか。そういう人たちにも分かるように翻訳をつけるのよ。それに読んでもらえばあなた自身の勉強にもなるでしょう。自分がしゃべることと人に教えることはまったく別の知識と技能が必要よ。それを分かってね。」

 こうして軽くかわしておいて僕は自分の仕事に戻った。しばらくするとパソコンのキーを叩く音が聞こえてきたので様子をうかがうとクレヨンは何やら一生懸命にパソコンに向かってキーを叩いていた。僕たちは顔を見合わせて大成功とばかりに目を瞑り合った。しかしクレヨンザルはそんなに甘くはなかった。
しばらくするとプリンターが動く音がしてクレヨン娘が叫んだ。

「ちょっと見て。こんな感じでいいの。」

 クレヨンが突き出した紙を受け取って中身を見て僕はたまげてしまった。何とそれは全く日本語になっていなかった。良くあることだが異なる二つの言葉を相互に翻訳する場合、単に一つ一つの言葉を置き換えていっても意味をなす文章にならない場合が往々にある。

 それは言語というものがそれぞれの国の文化や習慣あるいは生活と密接に結びついていて必ずしも異なる二つの言語について一つ一つの単語が対応して存在しているわけではないので単語の置き換えをしていても意味が全く分からなくなってしまう場合があるんだ。

 僕が大学で勉強していた頃ある言語学の教授が「英語を本当に理解するには聖書やマザーグースなどの民間伝承をしっかりと理解しておく必要がある。」と言っていたが、それから二十年以上も経ってその言葉の意味が少しは理解できるようになった。

 例えば日本語にも、
  『石の上にも三年』
  『石橋を叩いて渡る』
  『桃栗三年柿八年』
等という諺があるが、単にこれを言葉だけ英語に置き換えても全く意味をなさない。同じようなことが通常の言葉にも当てはまる。

 よく言葉の真意を理解しないとなかなか意味をなす日本語にはなり難い。また言葉の持つニュアンスが微妙に異なる場合も良くあるのでこのあたりも英和辞典を使っていると分かり難い。そして何よりもまずきれいな日本語が書けないと翻訳も訳の分からないものになってしまいがちだ。クレヨンの場合はどうもすべてに当てはまるようだ。決して高等ではない人間達の言葉を身につけ自分に必要な言葉だけを使い、しかも日本語が破壊的、これでは良い翻訳など出来るわけがない。

「ねえ、澤本さん、あなたこの日本語を理解出来る。」

 クレヨン娘は顔も向けずに「そこに書いてあるとおりでしょ。あなたは日本語が分からないの。」と言い放った。

「私ね、日本語は分かるけど澤本語は分からないわ。もっと英語の真意をよく理解してそれを日本語で表現するのよ。単に言葉の置き換えだけじゃあ日本語にはならないわ。もう一度自分で良く読み直して。これじゃあ落第よ。」

 差し出された紙を突き返すとクレヨンは引っ手繰るようにそれを取って破って捨てた。テキストエディターのお姉さんはそれを見て処置なしというように首をすくめた。その後時折かかってくる電話以外は何の会話もなくパソコンのキーを叩く音と紙をめくる音だけが部屋に響いた。誰も必要なこと以外は口を利こうとしなかった。このような状態は人間関係にはよろしくないが職場としては正しい状態なのかもしれないが、しかし厄介なクレヨンを背負い込んだものだ。

 終業時間が来たが、クレヨンもテキストエディターのお姉さんも帰ろうとはしなかった。テキストエディターのお姉さんには帰っていいと言ったのだが、彼女も仕事が滞っているからと帰ろうとはしなかった。クレヨンも辞書を片手に資料と取り組んでいた。僕はメールで女土方に二時間ほど残ると伝えてから資料の検索を続けた。

 クレヨン娘は黙って資料の翻訳を続けていたが、時々放心したように外に視線かを移していた。大学の講義もろくに受けていないのだろうし、勿論まともに仕事なんかしたことはないのだから疲れるんだろう。テキストエディターのお姉さんも帰って良いと言うのに残って講座に使うテキストの確認をしていた。僕に気を使っているのかそれともかかわりたくないのなんのという割にはクレヨン娘のはちゃめちゃ振りに興味があるのかもしれない。約束どおり午後七時三十分で仕事を終えた。

「明日は九時よ。いいわね。子供じゃないのだから余計な手間を掛けさせないでね。遅れたらその分は残業してもらうから。分かったわね。」

 僕は口も聞かずに帰り支度をしているクレヨン娘に声をかけた。クレヨンが何も答えずに紙切れを突き出すと外にかけ出して行った。それはクレヨンが訳した文章だったが、やはりだめなものはだめだった。まあそれは仕方ない。要は定められた時間仕事をするくせをつけることが第一だった。仕事の内容は二の次と言ってもそれは仕方ないことだし、クレヨンの能力に期待しているわけでもなかった。