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 翌日僕が出勤してもクレヨン娘は来ていなかった。クレヨン娘は始業時間が過ぎても姿を見せなかった。そんなこともあろうかと思って連絡もしないで放って置いたが一時間が過ぎ、二時間が過ぎてもクレヨン娘は姿を見せなかった。

「あの子、どうしたんでしょうね。もうたったの一日で音を上げたんでしょうか。」

テキストエディターのお姉さんが僕を振り返った。

「音を上げるようなことは何もしていないじゃない。昨夜遊びすぎて寝坊でもしたんじゃないの。」

 昨日の仕事なんてほとんど遊んでいるのと何ら変わりはないのだから逃げ出す理由がない。第一そんな玉じゃないという僕の予想は見事に当たった。クレヨン娘は昼近くになって姿を現した。

「ちょっと遅れちゃった。ごめんね。」

 何の屈託もなくそう言うクレヨンに怒る気力も殺がれてしまった。それでも何も言わないでこのままにしてはこれから先手がつけられなくなってしまう。ここが肝心なところだ。テキストエディターもそっと様子を覗っていた。

「あなたねえ、始業は九時と言った筈よ。今何時だと思っているの。」

僕は少しきつい口調でクレヨンを詰問した。

「だって仕方ないでしょう。昨夜遅かったし彼が離れるのをさみしがったし。遅れた分、お給料から差し引いておいてね、それでいいでしょう。」

これには僕もちょっとカチンと来た。

「お金だけの問題じゃないでしょう。一緒に仕事をしている人たちに対する責任があるでしょう。皆お互いに責任を分担しているんだから周りの人に迷惑をかけるでしょう。」

 このくらい言ってやれば少しは考えるかなんて思った僕が甘かった。このクレヨンはただのクレヨンではなかった。

「ああ面倒くさい。責任がどうの周りがどうのって。そんなことどうでもいいわ。私は私よ、好きにするわ。」

そう言ってぷいと横を向いたかと思うと次の瞬間急に笑顔になった。

「そうだ、彼氏とお昼するんだった。もうお昼よね、ちょっと出かけてくるわ。」

クレヨン娘はまだ昼休みには間があるのに外に飛び出して行った。

「何なの、あれ。」

 テキストエディターのお姉さんがぽつりと呟いた。僕はと言えば呆気に取られるよりも腹が立ってきた。あのクレヨンにはどう間違ってもビアンの極致など指南する気は起きなかったので本当にたわしと亀の子石鹸で顔でも洗ってやろうかと思った。

「主任、怒ってますね。」

 テキストエディターのお姉さんが僕を振り返って小声で言った。確かに言われるとおり腹の底からこみ上げて来るものがあった。

「どうしてくれよう、あの小娘。」

僕が呟くとテキストエディターのお姉さんは頭の横で指をくるくる回した。

「何を言っても無駄でしょう。腹を立てるだけばかばかしいですよ。私達の邪魔にならないようなことをさせておいて放っておけばいいですよ。関わるのはやめましょう、主任。」

「いえ、野生の動物でも飼い馴らすことは出来るのよ。根気良くやれば出来ないことはないわ。」

テキストエディターのお姉さんは首をすくめた。

「あの子は野生の動物ですか。でも野生動物の方がずっと始末がよかったりしてね。この間テレビで見た軽井沢の野猿の方がましな様な気がしますけど。主任、引っ掻かれたり噛み付かれたりして怪我をしないようにしてくださいね。」

 テキストエディターのお姉さんは「バカに関わっていないでさあ仕事、仕事。」と言いながら机に向かった。

「ちょっとタバコを吸うわよ。ごめんね。」

 僕は一言断ってから窓を開けるとタバコに火をつけた。窓に寄りかかって一本吸い終わると続けて二本目に火をつけた。

「あーあ、主任まで不良娘さんになってしまって。そんなにいらいらしてタバコなんて立て続けに吸うと体にもお肌にも悪いですよ。」

 テキストエディターのお姉さんは机に向かったままやや投げやりな口調でそんなことを言った。でも僕にしてみればここまでコケにされて黙って見過ごすわけにはいかなかった。何よりも勤務時間をここで過ごすようにすること。それがまず社会人への第一歩だ。とにかく万難を排してもここにいさせるようにしないといけない。

「しばらくは新規の企画開発は中止するわよ。基礎資料収集と顧客対応だけにするわ。」

「ええ本気ですか、主任。部長に叱られますよ、そんなことしたら。早く次の企画を示せって言われているのに。」

僕は顔の前で握りこぶしを造って見せた。

「大丈夫よ、心配しなくても。生涯語学学習というのが今度のテーマよ。あなたもちょっと考えてみて。子供の時から熟年まである程度継続してやるのならどういう語学教育をしたら良いのか。かなり大きなテーマになると思うけど。」

「へえ、面白そうだけど範囲が広すぎて漠然として簡単には思いつきそうもありませんね。少し腰をすえて考えて見ないと。」

「あまり力まないでのんびりと長く続けることが出来る語学って感じでね。」

 そんな構想を話し合っていると電話が鳴った。テキストエディターのお姉さんが電話を取って気楽な調子で答えたが急にかしこまった口調になった。

「おりますので代わります。お待ちください。」

テキストエディターのお姉さんは電話を突き出すと「社長です。」と小声で言った。

「はい、佐山です。」

受話器を取って答えると社長の声が返ってきた。

「佐山さん、僕です。あれはどうですか。元気にやっていますか。」

「元気過ぎて困っています。昨日はデートと言って退社時間前に消えてしまいました。今日は二時間遅れ
て出勤したと思ったら彼氏とデートとか言ってまた何処かに消えてしまいました。協調性も責任感もありません。言葉もどうでもいいことをしゃべりまくるくらいで特に優れた能力があるとも思えません。ただ業務の妨害になっているだけなのですが、私にあの子をどうしろとおっしゃるんですか。」

「訳は近いうちに話すけどとにかくしばらく面倒を見てやってくれないか。長い期間ではないので。その間仕事の方は多少停滞してもかまわない。」

「私はあの子の立ち居振舞にはかなり腹が立っています。森田さんの時のようになるかも知れませんけどそれでも良いのですか。」

「実態は分かっている。多少のことはかまわない。何とかよろしく頼みます。部長には話しておくから。じゃあまた。」

 社長はどうも歯切れの悪い言葉で締めくくると電話を切った。こうなれば乗りかかった船だ。頼むと言われて逃げては男が廃る。自分でもこういうところはきっと損な性分なんだろうと思うけど持って生まれた性分でもう一生治らないので付き合って生きていくより仕方ないだろう。

 社長は仕事が多少遅れてもかまわないと言ったが、そうだからと言って穴を開けるわけにもいかないので企画書作成に向けてまた資料の検索と整理を始めた。昼も近くのコンビニでサンドイッチを買い込んで食べながら資料に目を通した。

 クレヨン娘は昼休みが終わっても戻らなかった。野生のサルを飼い馴らすのだって大変なんだからまして悪知恵のついた人猿となればもっと大変だろう。これは向こうが飽きてくれない限り長期戦になるかもしれないと覚悟を決めた。

 クレヨン娘が帰って来たのは午後も二時を過ぎてからだった。これでまた三時の休憩とか言って何処かに逃げ出された日には目も当てられないのでここは一つ釘を刺しておくことにした。

「澤本さん、あなたに一つ言っておきたいことがあるの。あなたはここでお金をもらって働くことにしたんでしょう。だったら決められた時間はここにいて仕事をしなさい。勝手な行動は許しません。」

クレヨン娘はぱっと顔を赤くした。すぐに興奮するところもサルによく似ていた。

「私は私の好きなようにさせてもらうわ。働くとは言ったけど勤務時間なんて何も言われなかったわ。」

こういうところはサルよりも知恵が働く。敵もさるもの労働条件を持ち出してきた。

「そう何も言われなかったのね。じゃあ今これから言ってあげるわ。勤務時間は午前九時から午後五時三十分までよ。昼食の休憩は正午から午後一時よ。それ以外の時間はここで仕事をしなさい。分かったわね。」

クレヨン娘は持っていたバッグを叩きつけるようにテーブルに置いた。

「社長さんを呼んで。私、社長さんと話すわ。あなたとなんか話したくないわ。」

「社長はお忙しいの。それに社長からさっきあなたの面倒を見てくれって頼まれたの。私はあなたの上司よ。分かったわね。」

 僕はクレヨンの腕をつかんで引っ張ると椅子に座らせた。その間きゃーきゃーサルのような叫び声を上げたが僕は一切かまわなかった。どうせサルの類のようなものなのだから叫ぶのも仕方ないだろう。

「ここから離れる時は私に断って許可を受けるのよ、いいわね。」

クレヨン娘はそっぽを向いて返事をしなかったが、辞めるとかその手のことは言わなかった。

「さあこれが資料よ。パソコンはこれを使って。この資料を日本語に訳してワードファイルにしてね。もしも何か分からないことがあったら聞くのよ。」

 クレヨン娘は携帯を取り出した。またわけの分からない英語で彼氏と話をされても困るのでここでも一言釘を刺した。

「仕事中は使用の電話は慎みなさい。いいわね。」

 クレヨン娘は僕を睨みつけると携帯をバッグに投げつけた。いくら暴れてもそんなことかまうもんか。野ザルでも繋がれれば暴れるだろう。こうなればその腐った性根を叩き直してやる。サルは、いや違った、クレヨン娘はしばらくふてくされたように窓の外を眺めていたがそのうちに資料を手に取ってめくり始めた。別に訳してもらわなくても一向に構わないものだったが、目を通してくれればこれから何をやっていこうとしているのか少しは理解できるだろう。クレヨン娘は午後三時の休憩時間になるが早いか席を立って外に出ようとした。

「何処に行くの。」

僕が呼び止めるとクレヨン娘は不機嫌そうな顔を向けた。

「トイレに行くにも一々許可を受けないといけないの。そのくらい私の自由でしょう。」

「あなたには何度も前科があるから一応ね。時間までに戻ってらっしゃい、いいわね。」

クレヨン娘は返事もしないで靴音を響かせながら部屋の外に出て行った。

「主任も物好きですね。あんなの放っておけばいいのに。動物のようなのに何を言っても無駄ですよ。」

「大丈夫、動物だって辛抱強くやればいろいろなことをするようになるし、理解し合うことも出来るわ。」

「あれじゃあ理解するだけトラブルが増えるような気がしますけどね。」

 僕はテキストエディターのどうにも救いようもないといった風情に笑い出してしまった。話が一段落したところでクレヨン娘が入って来た。