結局クレヨン娘は一時間ほどもしてからほとんど何もなかったような顔をして戻って来た。そしてまた携帯で電話を始めた。しばらくぐちゃぐちゃとくだらない内容の電話を続けているのを黙って聞いていたが、そのうちにテキストエディターが怒り出した。
「ねえ、仕事の邪魔だから電話やめてよ。そんなに電話したいなら外でしたら。」
これはまずかった。クレヨン娘には勿怪の幸いだった。
「そうなの、じゃあちょっとお出かけしてくるわね。」
言うが早いかクレヨン娘は部屋から飛び出してどこかに消えてしまった。
「まずいわよ、あの娘にそれは。」
僕はエディターの顔を見つめた。エディターは何が起こったのか分からずに放心したようにドアの方を見ていた。まさか本当に出て行ってしまうとは思わなかったんだろうけれどあのクレヨン娘にはそれは甘い見方というものだ。まあ出て行ったからと言っても痛くもかゆくもないし却ってこちらには都合がいいのだけど。
しばらく静かになって仕事に取り掛かったところにまたクレヨン娘が帰って来た。テキストエディターと二人で黙って仕事をしていると割り当てられた場所で何やらごそごそやっていたが、静かになったと思ったらいきなり僕の後ろに来た。
「今日は慣れない仕事をしてずい分気疲れしちゃったわ。ねえ、私、ジョニーとお約束があるので失礼させてもらってもいい。」
何を言い出すのかと思えばいきなり気疲れしただと。昼に来てから何もしてないだろうに。ふざけたことをぬかすクレヨンだ。一言言ってやろうと思ったらもう身を翻して出て行こうとしていた。
「明日はここに九時に来てね。いいわね。」
その時僕にはクレヨン娘の背中に向かってこれだけ言うのが精一杯だった。
「一体あの子は何者ですか。」
テキストエディターのお姉さんが呆れた顔で僕を見た。その視線を受け止めながら何だか僕自身が非難されているような気がして来た。
「よく分からないわ。アルバイトでもないし、非常勤でもないし、関連会社の派遣でもないし。部長に押し付けられたのよ。社長から頼まれたんで面倒を見てやってくれって。社長の知り合いの娘さんらしいわ。ただでさえ忙しいのに面倒掛けてごめんなさいね。」
僕はテキストエディターのお姉さんに謝ったが、どうして僕があのクレヨンのために謝らなければいけないのか納得のいかない思いだった。
「へえ、そうなんですか。それにしてもずい分外れくじを引かされましたね。それにしても沖縄決戦では北の政所軍団を撃破した鉄の女佐山主任もあの子には形無しですね。」
「もう何とかして欲しいわ。半日で疲れちゃった。第一あのクレヨンで描いたような化粧って何とかならないものかしらねえ。」
大方の男は若い娘が良いと言うが、僕は札束を積まれてもあんな手合いとお手合わせするのは御免被りたい。
「ああ、あの手の化粧は今時の若い子にはけっこう人気があるようですよ。私なんかちょっと引いてしまいますけどね。でも急に化粧に関心も興味も示さなくなった主任には耐えられませんか。」
「他人のことはとやかく言いたくないけど幼児が描いた顔のようじゃない。若いって言うことはそれだけで美しいんだから何もあんなにしなくてもいいんじゃないかなあ。」
「あはは、よっぽど主任の趣味とは合わないようですね。さ、そんなことよりもとにかく今日の分の仕事は片付けておかないと。」
テキストエディターのお姉さんはそういうとまたパソコンの画面と向き合った。僕もパソコンを操作してインターネットに接続すると資料になりそうなテーマの検索やブックマークを始めた。そうして二時間ばかり残業をして引き上げた。
帰ると女土方はもう家にいた。すぐに食事の支度を始めようとするとクレヨン娘のことを聞かれた。
「半日で疲れちゃったわ。何だか野生動物のような子ね。」
女土方は肩をすくめた。
「野生動物ねえ。ちょっとうわさには聞いたけど。手に負えないって。取引先の娘さんらしいけどどうにもこうにも我儘だって話よ。」
我儘なんてものなら可愛げがある。飢えた野獣と一緒で自分の欲求だけで行動しているようなものだ。
「社長もどうしてあんなのを私によこすのかしら。北の政所様だけでたくさんだわ。」
「よほど見込まれちゃったのね。社長に。次の人事で次期役員に抜擢してくれるかも知れないわよ。」
女土方は僕に向かって目を瞑って見せた。
「冗談じゃないわ。私、そんなものには何の興味もないわ。第一息子さんがいるのに私が社長な訳がないでしょう。」
この先何時まであのクレヨン娘の面倒を見ていくのかと思うと何だか気が塞いで目の前が暗くなって来た。
「資料を読ませようとしても面倒臭いって放り出してしまうし、考えなさいって言っても何をどうして考えて良いのか分からないって言うし。そんなこと言われたらこっちがどうしていいのか分からなくなってしまうわ。」
今度は女土方が肩をすくめた。
「そういうのって困るわね。でも以前にあなた言っていたじゃない。考えるって行為はそのための知識を蓄積しておいてから考え方を教えないと出来ない。人間なら誰でもものを考えることができると言うのは間違いだって。
その子も語学教育のノウハウも知らなければそうした知識もないんでしょう。そうすると語学教育について考えなさいって言われてもそのこと自体理解出来ないんじゃない。」
女土方の言うことはもっともだった。僕は悩むと言うことがあまりなかった。悩むと言うこと自体その状態は概念的には知っているが、実際にはどういうことを言うのかよく理解できなかった。敢えて言えばある問題に対して前にも後ろにもどうにも身動きが取れなくなる状態を悩むと言うのだろうけどそういうことは経験がなかった。
性格的に大雑把でいい加減なのかも知れないが、何があっても大体は進むべき方向を決めてその方向に進んで行くし、どうにもならないことは誰がどうしてもどうにもならないのだから状況を見守りながら対症療法で対応する以外にないのだから。
「そうか、まずは相手を見ることね。得体が知れないとか騒ぎ立てて異端視しても敵のことが分からないものね。それじゃあ百戦百敗だわ。」
女土方は微笑んで頷いた。
「あなたはさすがに状況判断が早いわね。うちの聡明な社長が見込んだだけのことはあるわ。」
女土方は他人事と思ってけっこう言いたいことを勝手に言いまくっていた。
「やっぱり一つ一つ時間をかけて教えていく他ないのかな。動物に芸を仕込むのと一緒ね。根気かな。」
「おかしな知恵がついているから動物よりもずっと始末が悪いかもね。きっと甘やかされていたんでしょ
うから変にプライド高いでしょうし。でもあなたなら大丈夫よ。きっとうまくやるわ。」
女土方に『きっとうまくやるわ。』と言われてもどうにも自信がなかった。大体根気なんていうものとは縁遠くて三回言って分からないと腹が立ってしまうような短気な人間だから一つ一つ根気良くなんてとても出来そうにない。どうしたらいいかと考えたが、結局敵の出方を見て対応を決めようと言うことで誤魔化して考えるのをやめてしまった。幾ら考えても僕はクレヨン娘ではないのだから分かるわけがない。
それに職場にいれば仕事のことを考えるのは仕方がないが、私生活に戻ってからもそんなことを考えて嫌な気分になるのはばかばかしい。滅私奉公ではないのだから自分の時間は自分なりに楽をして楽しめばいい。
「ねえ、あなたはその子に何を一番してあげたい。」
女土方がまた突然クレヨン娘の話を持ち出した。
「え、あの子に。何を一番してやりたいかって。そうね、洗面台に引き摺って行って顔に石鹸を塗りたくってあの化粧を前部きれいに洗い流してやりたいわ。亀の子たわしか何かでゴシゴシと。」
「え、あなた、そんな過激なこと絶対にしちゃだめよ。まさかとは思うけど森田さんの時のこともあるし。」
僕は女土方の真顔に苦笑いしてしまった。
「いくら何でもよほどのことがない限り私だってそこまではやらないわ。でもあのクレヨンの化粧って本当に子供がクレヨンで描いた絵に出てくる人物みたい。あんなのがいいのかな。分からないわね、美意識って。」
「そうね、気長にね。焦ったりいらいらしたりしない様にね。大丈夫、あなたならきっとうまく出来るわよ。」
女土方は同じことを二回言った。僕も二回それに頷いた。そして僕たちは普通の自分達の生活に戻って行った。
「ねえ、仕事の邪魔だから電話やめてよ。そんなに電話したいなら外でしたら。」
これはまずかった。クレヨン娘には勿怪の幸いだった。
「そうなの、じゃあちょっとお出かけしてくるわね。」
言うが早いかクレヨン娘は部屋から飛び出してどこかに消えてしまった。
「まずいわよ、あの娘にそれは。」
僕はエディターの顔を見つめた。エディターは何が起こったのか分からずに放心したようにドアの方を見ていた。まさか本当に出て行ってしまうとは思わなかったんだろうけれどあのクレヨン娘にはそれは甘い見方というものだ。まあ出て行ったからと言っても痛くもかゆくもないし却ってこちらには都合がいいのだけど。
しばらく静かになって仕事に取り掛かったところにまたクレヨン娘が帰って来た。テキストエディターと二人で黙って仕事をしていると割り当てられた場所で何やらごそごそやっていたが、静かになったと思ったらいきなり僕の後ろに来た。
「今日は慣れない仕事をしてずい分気疲れしちゃったわ。ねえ、私、ジョニーとお約束があるので失礼させてもらってもいい。」
何を言い出すのかと思えばいきなり気疲れしただと。昼に来てから何もしてないだろうに。ふざけたことをぬかすクレヨンだ。一言言ってやろうと思ったらもう身を翻して出て行こうとしていた。
「明日はここに九時に来てね。いいわね。」
その時僕にはクレヨン娘の背中に向かってこれだけ言うのが精一杯だった。
「一体あの子は何者ですか。」
テキストエディターのお姉さんが呆れた顔で僕を見た。その視線を受け止めながら何だか僕自身が非難されているような気がして来た。
「よく分からないわ。アルバイトでもないし、非常勤でもないし、関連会社の派遣でもないし。部長に押し付けられたのよ。社長から頼まれたんで面倒を見てやってくれって。社長の知り合いの娘さんらしいわ。ただでさえ忙しいのに面倒掛けてごめんなさいね。」
僕はテキストエディターのお姉さんに謝ったが、どうして僕があのクレヨンのために謝らなければいけないのか納得のいかない思いだった。
「へえ、そうなんですか。それにしてもずい分外れくじを引かされましたね。それにしても沖縄決戦では北の政所軍団を撃破した鉄の女佐山主任もあの子には形無しですね。」
「もう何とかして欲しいわ。半日で疲れちゃった。第一あのクレヨンで描いたような化粧って何とかならないものかしらねえ。」
大方の男は若い娘が良いと言うが、僕は札束を積まれてもあんな手合いとお手合わせするのは御免被りたい。
「ああ、あの手の化粧は今時の若い子にはけっこう人気があるようですよ。私なんかちょっと引いてしまいますけどね。でも急に化粧に関心も興味も示さなくなった主任には耐えられませんか。」
「他人のことはとやかく言いたくないけど幼児が描いた顔のようじゃない。若いって言うことはそれだけで美しいんだから何もあんなにしなくてもいいんじゃないかなあ。」
「あはは、よっぽど主任の趣味とは合わないようですね。さ、そんなことよりもとにかく今日の分の仕事は片付けておかないと。」
テキストエディターのお姉さんはそういうとまたパソコンの画面と向き合った。僕もパソコンを操作してインターネットに接続すると資料になりそうなテーマの検索やブックマークを始めた。そうして二時間ばかり残業をして引き上げた。
帰ると女土方はもう家にいた。すぐに食事の支度を始めようとするとクレヨン娘のことを聞かれた。
「半日で疲れちゃったわ。何だか野生動物のような子ね。」
女土方は肩をすくめた。
「野生動物ねえ。ちょっとうわさには聞いたけど。手に負えないって。取引先の娘さんらしいけどどうにもこうにも我儘だって話よ。」
我儘なんてものなら可愛げがある。飢えた野獣と一緒で自分の欲求だけで行動しているようなものだ。
「社長もどうしてあんなのを私によこすのかしら。北の政所様だけでたくさんだわ。」
「よほど見込まれちゃったのね。社長に。次の人事で次期役員に抜擢してくれるかも知れないわよ。」
女土方は僕に向かって目を瞑って見せた。
「冗談じゃないわ。私、そんなものには何の興味もないわ。第一息子さんがいるのに私が社長な訳がないでしょう。」
この先何時まであのクレヨン娘の面倒を見ていくのかと思うと何だか気が塞いで目の前が暗くなって来た。
「資料を読ませようとしても面倒臭いって放り出してしまうし、考えなさいって言っても何をどうして考えて良いのか分からないって言うし。そんなこと言われたらこっちがどうしていいのか分からなくなってしまうわ。」
今度は女土方が肩をすくめた。
「そういうのって困るわね。でも以前にあなた言っていたじゃない。考えるって行為はそのための知識を蓄積しておいてから考え方を教えないと出来ない。人間なら誰でもものを考えることができると言うのは間違いだって。
その子も語学教育のノウハウも知らなければそうした知識もないんでしょう。そうすると語学教育について考えなさいって言われてもそのこと自体理解出来ないんじゃない。」
女土方の言うことはもっともだった。僕は悩むと言うことがあまりなかった。悩むと言うこと自体その状態は概念的には知っているが、実際にはどういうことを言うのかよく理解できなかった。敢えて言えばある問題に対して前にも後ろにもどうにも身動きが取れなくなる状態を悩むと言うのだろうけどそういうことは経験がなかった。
性格的に大雑把でいい加減なのかも知れないが、何があっても大体は進むべき方向を決めてその方向に進んで行くし、どうにもならないことは誰がどうしてもどうにもならないのだから状況を見守りながら対症療法で対応する以外にないのだから。
「そうか、まずは相手を見ることね。得体が知れないとか騒ぎ立てて異端視しても敵のことが分からないものね。それじゃあ百戦百敗だわ。」
女土方は微笑んで頷いた。
「あなたはさすがに状況判断が早いわね。うちの聡明な社長が見込んだだけのことはあるわ。」
女土方は他人事と思ってけっこう言いたいことを勝手に言いまくっていた。
「やっぱり一つ一つ時間をかけて教えていく他ないのかな。動物に芸を仕込むのと一緒ね。根気かな。」
「おかしな知恵がついているから動物よりもずっと始末が悪いかもね。きっと甘やかされていたんでしょ
うから変にプライド高いでしょうし。でもあなたなら大丈夫よ。きっとうまくやるわ。」
女土方に『きっとうまくやるわ。』と言われてもどうにも自信がなかった。大体根気なんていうものとは縁遠くて三回言って分からないと腹が立ってしまうような短気な人間だから一つ一つ根気良くなんてとても出来そうにない。どうしたらいいかと考えたが、結局敵の出方を見て対応を決めようと言うことで誤魔化して考えるのをやめてしまった。幾ら考えても僕はクレヨン娘ではないのだから分かるわけがない。
それに職場にいれば仕事のことを考えるのは仕方がないが、私生活に戻ってからもそんなことを考えて嫌な気分になるのはばかばかしい。滅私奉公ではないのだから自分の時間は自分なりに楽をして楽しめばいい。
「ねえ、あなたはその子に何を一番してあげたい。」
女土方がまた突然クレヨン娘の話を持ち出した。
「え、あの子に。何を一番してやりたいかって。そうね、洗面台に引き摺って行って顔に石鹸を塗りたくってあの化粧を前部きれいに洗い流してやりたいわ。亀の子たわしか何かでゴシゴシと。」
「え、あなた、そんな過激なこと絶対にしちゃだめよ。まさかとは思うけど森田さんの時のこともあるし。」
僕は女土方の真顔に苦笑いしてしまった。
「いくら何でもよほどのことがない限り私だってそこまではやらないわ。でもあのクレヨンの化粧って本当に子供がクレヨンで描いた絵に出てくる人物みたい。あんなのがいいのかな。分からないわね、美意識って。」
「そうね、気長にね。焦ったりいらいらしたりしない様にね。大丈夫、あなたならきっとうまく出来るわよ。」
女土方は同じことを二回言った。僕も二回それに頷いた。そして僕たちは普通の自分達の生活に戻って行った。