「冴子、君はそんなに怒るが原因を作ったのは君自身じゃないのか。」
社長の穏やかな表情は全く変わらなかった。
「佐山さんの顔を見てみろよ。あんなに酷いアザになって。怪我をするほど女性の顔を叩くなんて酷すぎやしないか。それに比べれば自分がしたことでお尻くらい叩かれても文句は言えないだろう。どうかな。」
社長に言い返されると北の政所様は顔を背けて黙り込んでしまった。確かに自分の被害だけを論って言えたものじゃないかもしれない。もっとも国家でもこの手のものが多いのだから個人のことなど言えた義理でもないかも知れないが。
「確かに酷いことだったかも知れないわ。佐山さんが口からたくさん血を流しているのを見ていて怖くなったわ。」
しばらく沈黙が続いた後、北の政所様が低い小さな声で呟いた。
『加害者のお前が怖くなってどうするんだ。怖くなる前に悪かったと思わないのか。』
僕としてみれば北の政所様の言葉には納得しかねるものがあったが、取り敢えずは黙って聞いていた。
「しかし驚いただろう。お前の様に裏の女王として君臨して反抗する者もなく思いのままに生きている女がいきなり取り押さえられて尻を叩かれたんだから。いやあ見物だっただろうな。僕も見てみたかったよ、冴子が尻を叩かれているところを。」
社長はまた大波風が立ちそうなことをあっさりと口にして大笑いした。北の政所様は不機嫌な表情で黙り込んでいた。そして一旦テーブルの上に置いたビールを引っ手繰る様に手に取ると口に運んで一気に飲んだ。
「冴子、僕は今まで黙っていたけど伊藤さんとお前のトラブルも知っている。小さな狭い世界だ。何でも話は耳に入ってくる。そうして鬱屈しているお前の気持ちが分からないこともない。お前の生い立ちに同情すべき点は十分にあるのだからな。でもそうして鬱屈した生活をこれからも続けていくことがお前にとって良いことだとは思えないんだ。どうだろう、これを機会に自分の生き方を考え直してみたら。」
北の政所様は相変わらず不機嫌な顔で何も言わずにビールを飲み続けていた。そこにルームサービスが料理を運んで来た。オードブル、郷土料理、サラダ、果物などなかなか豪華だった。
「さあ食べて、食べて。楽しくやろう。」
誰もが黙り込んでいる中、社長一人が場違いなように明るく振舞っていた。
「佐山さん、僕はね、あなたが最近劇的とも言うほど変わったことも聞いている。伊藤さんと接近していることも耳に入っている。でも二人ともしっかりと会社のために良い仕事をしてくれている。今こうして話していても二人はとても魅力的な素敵な女性だ。
個人の私生活に会社が全く関与しないと言うのも問題かも知れないが、僕は出来るだけ個人の生活は手付かずのままにして会社が介入すべきではないと思う。その分個々の社員は会社の性格を考えてそれなりに自分の生活を律していただきたい。いわばこれは会社と個人の紳士協定だ。
冴子、僕は君の私生活もいろいろ耳に入って来る。あまり芳しいものは聞こえてこないが、今話したようなわけだから黙っていた。だけどな、君の持っている才能を考えると今の状態で時間を過ごしているのは会社にとっても冴子自身にとっても大きな損失だと思う。」
二本目の缶ビールに手を出していた北の政所様は缶を持ったまま社長の方に顔を向けた。
「私に何をしろって言うの。どこに行っても妾の子、愛人に生ませた子供ってそう言われるだけじゃないの。これ以上他人の好奇の目に自分を晒すのはいやだわ。」
北の政所様は聡明さに似合わない単純な駄々をこねていた。大体好奇の目に晒されるのがいやならそんな父親の会社などに留まらないで全く別の生き方を探せばいい。形は異なっても結局親の影響下で生きているのだから他人の目に文句を言う筋合いでもないじゃないか。そんなことを言っていたら僕のように目が覚めたら女に変わっていた者はどうすればいいんだなどと考えていたらこのいい年をした甘ったれに急にそれを言ってやりたくなった。
「森田さん、あなたはそう言うけどどんな立場にしても今の会社にいるってことは自分から人の好奇の目に晒していることになるし結局先代社長の影響下でその恩恵を受けて生きているってことじゃないの。」
女土方が僕を見た。困惑した顔つきだった。そしてお返しは早速やって来た。
「あなたに私の何が分かるの。知ったような口を聞かないで。」
北の政所様は顔を引きつらせていた。また殴りかかって来たら今日は社長の前でけつをひん剥いて思い切り叩いてやる。
「あなたのことなんて分からないわ。じゃあそういうならあなたは私のことが分かるの。私が何を背負って生きているのかをあなたは分かるの。あなたは人の好奇の目に晒されたくないと言いながら公私とも自分の生い立ちに絡む影響力を十分過ぎるほど使っているじゃないの。それは誰が見ても間違いのない事実でしょう。
少なくとも先代社長の実子で今の社長とは兄弟なんていう周囲に大きな影響力を持っている立派な大人の女性がそんなすねた小娘みたいな生き方をされたら周りの者は堪らないわ。頭は悪くはないようだから少しは考えたら。今のままではあなたにとっても周囲にとっても不幸だわ。」
北の政所様は怒りで顔を真っ赤にしていたが、さすがに殴りかかって来はしなかった。社長の前だからということもあるが、昨日の手痛い敗北が身に沁みているのかも知れない。
「いや佐山さんにはずい分厳しいことを言ってもらったが、全くそのとおりだと思う。冴子に考え直してもらいたいのはまさにそのことなんだ。」
社長と僕の連合軍の猛攻に遭った北の政所様はだんだんと追い詰められて終いには下を向いて泣き出した。
「そうしてみんなで私を責めればいいわ。私に今のところから出て行けというなら私は出て行くわ。こんな芝居がかったことをしないではっきりそう言えばいいじゃないの。」
北の政所様は目から大粒の涙を流した。強がっている女が追い詰められて泣き出す姿はなかなか可愛らしかった。
「もうやめてください。そんなに言ったら森田さんがかわいそうだわ。」
女土方が間に割って入った。普段はしれっとした無表情なこの女はこうして窮地に陥った者には誰にも優しい女なんだ。
「森田さんだって生まれたくて今のようになったわけではないわ。彼女の責任もあるのかもしれないけど、だからと言って二人がかりでそんなに責めるのはよくないわ。」
女土方は宿敵である北の政所様の擁護を始めた。自分にとって相手が良い悪いではなく弱い立場の者を放っておけないというのが彼女の性格だった。
「社長さんも佐山さんも悪気で言っているんではないと思うわ。あなたに変わって欲しいからあんなことを言うんだと思うわ。私ね、あなたはもっと素直に生えればいいと思うの。いいじゃない、先代の子供には間違いないんだから堂々と生きれば。私はそう思うけど。何だか時代錯誤のような気がするわ。嫡流じゃないから日陰で生えるなんて。元気を出して胸を張って生きればいいと思うわ。森田さんは能力のある人だから社長さんもあなたの能力を認めていろいろ言われるんだと思う。」
妾の子だから日陰で生きると言うのは確かに今の世の中に照らして考えると時代錯誤かもしれない。威張ることもないが日陰で忍ぶこともない。自分の能力を発揮して正々堂々と生きれば良い。北の政所様はそういうところは古風でいらっしゃるのかそれとも責任の及ばないところで影響力だけを行使して安閑としようとしているのかそれは本人に聞いてみないと分からないが、それにしても僕は全く女土方に同意してしまった。
社長の穏やかな表情は全く変わらなかった。
「佐山さんの顔を見てみろよ。あんなに酷いアザになって。怪我をするほど女性の顔を叩くなんて酷すぎやしないか。それに比べれば自分がしたことでお尻くらい叩かれても文句は言えないだろう。どうかな。」
社長に言い返されると北の政所様は顔を背けて黙り込んでしまった。確かに自分の被害だけを論って言えたものじゃないかもしれない。もっとも国家でもこの手のものが多いのだから個人のことなど言えた義理でもないかも知れないが。
「確かに酷いことだったかも知れないわ。佐山さんが口からたくさん血を流しているのを見ていて怖くなったわ。」
しばらく沈黙が続いた後、北の政所様が低い小さな声で呟いた。
『加害者のお前が怖くなってどうするんだ。怖くなる前に悪かったと思わないのか。』
僕としてみれば北の政所様の言葉には納得しかねるものがあったが、取り敢えずは黙って聞いていた。
「しかし驚いただろう。お前の様に裏の女王として君臨して反抗する者もなく思いのままに生きている女がいきなり取り押さえられて尻を叩かれたんだから。いやあ見物だっただろうな。僕も見てみたかったよ、冴子が尻を叩かれているところを。」
社長はまた大波風が立ちそうなことをあっさりと口にして大笑いした。北の政所様は不機嫌な表情で黙り込んでいた。そして一旦テーブルの上に置いたビールを引っ手繰る様に手に取ると口に運んで一気に飲んだ。
「冴子、僕は今まで黙っていたけど伊藤さんとお前のトラブルも知っている。小さな狭い世界だ。何でも話は耳に入ってくる。そうして鬱屈しているお前の気持ちが分からないこともない。お前の生い立ちに同情すべき点は十分にあるのだからな。でもそうして鬱屈した生活をこれからも続けていくことがお前にとって良いことだとは思えないんだ。どうだろう、これを機会に自分の生き方を考え直してみたら。」
北の政所様は相変わらず不機嫌な顔で何も言わずにビールを飲み続けていた。そこにルームサービスが料理を運んで来た。オードブル、郷土料理、サラダ、果物などなかなか豪華だった。
「さあ食べて、食べて。楽しくやろう。」
誰もが黙り込んでいる中、社長一人が場違いなように明るく振舞っていた。
「佐山さん、僕はね、あなたが最近劇的とも言うほど変わったことも聞いている。伊藤さんと接近していることも耳に入っている。でも二人ともしっかりと会社のために良い仕事をしてくれている。今こうして話していても二人はとても魅力的な素敵な女性だ。
個人の私生活に会社が全く関与しないと言うのも問題かも知れないが、僕は出来るだけ個人の生活は手付かずのままにして会社が介入すべきではないと思う。その分個々の社員は会社の性格を考えてそれなりに自分の生活を律していただきたい。いわばこれは会社と個人の紳士協定だ。
冴子、僕は君の私生活もいろいろ耳に入って来る。あまり芳しいものは聞こえてこないが、今話したようなわけだから黙っていた。だけどな、君の持っている才能を考えると今の状態で時間を過ごしているのは会社にとっても冴子自身にとっても大きな損失だと思う。」
二本目の缶ビールに手を出していた北の政所様は缶を持ったまま社長の方に顔を向けた。
「私に何をしろって言うの。どこに行っても妾の子、愛人に生ませた子供ってそう言われるだけじゃないの。これ以上他人の好奇の目に自分を晒すのはいやだわ。」
北の政所様は聡明さに似合わない単純な駄々をこねていた。大体好奇の目に晒されるのがいやならそんな父親の会社などに留まらないで全く別の生き方を探せばいい。形は異なっても結局親の影響下で生きているのだから他人の目に文句を言う筋合いでもないじゃないか。そんなことを言っていたら僕のように目が覚めたら女に変わっていた者はどうすればいいんだなどと考えていたらこのいい年をした甘ったれに急にそれを言ってやりたくなった。
「森田さん、あなたはそう言うけどどんな立場にしても今の会社にいるってことは自分から人の好奇の目に晒していることになるし結局先代社長の影響下でその恩恵を受けて生きているってことじゃないの。」
女土方が僕を見た。困惑した顔つきだった。そしてお返しは早速やって来た。
「あなたに私の何が分かるの。知ったような口を聞かないで。」
北の政所様は顔を引きつらせていた。また殴りかかって来たら今日は社長の前でけつをひん剥いて思い切り叩いてやる。
「あなたのことなんて分からないわ。じゃあそういうならあなたは私のことが分かるの。私が何を背負って生きているのかをあなたは分かるの。あなたは人の好奇の目に晒されたくないと言いながら公私とも自分の生い立ちに絡む影響力を十分過ぎるほど使っているじゃないの。それは誰が見ても間違いのない事実でしょう。
少なくとも先代社長の実子で今の社長とは兄弟なんていう周囲に大きな影響力を持っている立派な大人の女性がそんなすねた小娘みたいな生き方をされたら周りの者は堪らないわ。頭は悪くはないようだから少しは考えたら。今のままではあなたにとっても周囲にとっても不幸だわ。」
北の政所様は怒りで顔を真っ赤にしていたが、さすがに殴りかかって来はしなかった。社長の前だからということもあるが、昨日の手痛い敗北が身に沁みているのかも知れない。
「いや佐山さんにはずい分厳しいことを言ってもらったが、全くそのとおりだと思う。冴子に考え直してもらいたいのはまさにそのことなんだ。」
社長と僕の連合軍の猛攻に遭った北の政所様はだんだんと追い詰められて終いには下を向いて泣き出した。
「そうしてみんなで私を責めればいいわ。私に今のところから出て行けというなら私は出て行くわ。こんな芝居がかったことをしないではっきりそう言えばいいじゃないの。」
北の政所様は目から大粒の涙を流した。強がっている女が追い詰められて泣き出す姿はなかなか可愛らしかった。
「もうやめてください。そんなに言ったら森田さんがかわいそうだわ。」
女土方が間に割って入った。普段はしれっとした無表情なこの女はこうして窮地に陥った者には誰にも優しい女なんだ。
「森田さんだって生まれたくて今のようになったわけではないわ。彼女の責任もあるのかもしれないけど、だからと言って二人がかりでそんなに責めるのはよくないわ。」
女土方は宿敵である北の政所様の擁護を始めた。自分にとって相手が良い悪いではなく弱い立場の者を放っておけないというのが彼女の性格だった。
「社長さんも佐山さんも悪気で言っているんではないと思うわ。あなたに変わって欲しいからあんなことを言うんだと思うわ。私ね、あなたはもっと素直に生えればいいと思うの。いいじゃない、先代の子供には間違いないんだから堂々と生きれば。私はそう思うけど。何だか時代錯誤のような気がするわ。嫡流じゃないから日陰で生えるなんて。元気を出して胸を張って生きればいいと思うわ。森田さんは能力のある人だから社長さんもあなたの能力を認めていろいろ言われるんだと思う。」
妾の子だから日陰で生きると言うのは確かに今の世の中に照らして考えると時代錯誤かもしれない。威張ることもないが日陰で忍ぶこともない。自分の能力を発揮して正々堂々と生きれば良い。北の政所様はそういうところは古風でいらっしゃるのかそれとも責任の及ばないところで影響力だけを行使して安閑としようとしているのかそれは本人に聞いてみないと分からないが、それにしても僕は全く女土方に同意してしまった。