朝はとても穏やかにやって来た。僕たちは朝食の時間に危うく遅れる頃までまどろんでから起き上がった。女土方は僕の顔を見るなり「困ったわね、その顔。」と首を捻ってしまった。鏡を見ると確かに青黒いアザが頬に大きく拡がっている上に顔がお多福の様に腫れ上がっている。どう考えても人様の前に晒せる顔ではなかった。そんな自分の顔を見ながら北の政所様のけつがどうなっているのか想像してしまった。
女の力とはいえあれだけ怒りに任せて二回も叩いたのだから向こうも蒙古斑の様なアザがついているに違いない。こっちがこれだけの損害を負ったのだから向こうもそれなりにダメージを被っていてくれないと困る。「とにかく何とかしないと、」と思い病院でもらったガーゼを貼り付けてみたが、余計に目立ってしまうような気がした。
女土方がハンカチで覆っていくように勧めたのでそうすることにして「nana」のタオル地のハンカチを口に当てて部屋を出た。社員のうち出かける者は大方出てしまったようだったが、それでも朝食の用意された食堂にはまだあちこちに同じ職場の者が残っていてこちらを覗いながら何やら小声で話し込んでいた。どうせ昨日の一件はもう知れ渡っているのだろうと思い胸を張って堂々と食堂の真ん中に陣取った。
女土方は少し人目を気にしているようだったが、悪いことをしたわけでもないし僕はかまわなかった。ただ口を大きく開けないので食事が摂り辛いのには少しばかり閉口した。しかし北の政所様が他人の前でお尻を剥かれて叩かれたことをみんな知っているのだろうかと思うと少しばかりどきどきした。そうしてのんびりを装って食事をしていると「ちょっと同席させてもらってもいいですか。」という男性の声がした。聞き覚えのある声だと思って振り向くとそこにはトレイを持って社長が立っていた。
「どうぞ、お掛けください。」
女土方が落ち着いた声で答えた。社長は「ありがとう。」と言うとトレイをテーブルにおいて僕と女土方の間に腰を下ろした。女土方が湯飲みにお茶を注いで差し出すと社長は軽く会釈した。朝食はバイキング形式で和洋中華なんでも選べるが社長が選んだのは魚の干物に海苔と卵、味噌汁に漬物という純和風の朝食だった。最近こんなに典型的な日本の朝食を見るのはめったにないというくらいの純和風だったが、そこにコーヒーが添えられていたのには何ともそぐわない感じがした。
「佐山さん、顔の怪我は大丈夫ですか。本当に申し訳ないことをした。女性の顔なのに冴子にも困ったものだ。知っていると思うけど彼女は僕の異母姉妹でね。よく叱っておくのでここは何とか穏便に許してやって欲しい。怪我の治療費のことは必ず支払わせるので。」
何だ、昨夜の僕と北の政所様との戦闘はもう社長にまで知れ渡っているのか。世間が狭いのかこの種の情報の伝達が早いのか何とも空恐ろしい。この分では僕と女土方のことも知っているのだろう。
「いや、彼女と血縁だからと言って弁護をするわけではないが、冴子もあれで能力はあるし近づいて見れば決して悪い人間ではないのだけど彼女は彼女なりに生立ちにコンプレックスがあっていくら勧めても表には出たがらない。それでも自分の能力には彼女なりの自負がある。その上に周りが煽てる割には本当に彼女に近づいて彼女を理解したり時には叱ったりしようとはしないから余計に孤立して彼女自身もうまく自分のエネルギーを消化できずにああして時々暴走してしまう。
自分自身の責任ではあるけれどそんな彼女を見ていると時々かわいそうになってしまってね。もう年齢的にも落ち着かないといけない年も年だしねえ。何とかならないものかとは思うが、僕の立場であまり動きすぎると私情と誤解されかねない。それでは社内の公平な統率を乱してしまうことになるし彼女も僕に口出しされることを好まないようだ。自分の生い立ちを思うと冴子も素直に僕の言うことを受け入れる気にならないんだろう。僕としてもどうにも動きようがなく困っているんだ。」
社長は器用に干物の骨を剥ぎ取りながらそんなことを誰に言うともなく口にした。どうも僕が北の政所様のお尻を叩いたことは知らないようだった。
「大丈夫です。切れたのは口の中ですから痕は残らないし縫合してあるのですぐに治ります。それに彼女との対決の結果は痛み分けですから。」
僕がそう言うと社長は箸を止めて顔を上げた。
「痛み分けってどういうこと。」
「え、」
女土方が僕を睨んだ。どうも余計なことを言うなと言いたいらしかった。でももうここまで口にしたら仕方ないじゃないか。どうせ遅かれ早かれ知れることなんだから。
「森田さんに顔を叩かれて腹が立ったのでもう一度殴りに来た彼女を抱え込んで思い切りお尻を叩いてやったんです。でも伊藤さんに手を押さえられてたった二回しか叩けなかったけど。本当は十回くらい叩いてやろうと思ったんです。彼女がごめんなさいと謝るまで。でもたった二回でもきっと私の手の跡がはっきりとついていると思いますけどね、しばらくは。」
社長は箸をおいて「へえ」と言う感じで身を乗り出してきた。
「佐山さんは大人しい女性だと思っていたけど見掛けによらずやるもんだねえ。それで冴子、今朝はちょっと様子がおかしかったのか。何だか放心したようで。しかしやるもんだねえ、彼女のお尻を叩くなんて。いや誤解しないで欲しいんだけど変な意味じゃなく見ものだったろうな。佐山さんにお尻を叩かれている彼女って。
母親はけっこう厳しい人だったが、まさかそんなことはされたことはないだろう。それで少しでも変わってくれるといいんだが。あなた達のような人が冴子のそばにいていろいろ意見でもしてくれるといいんだけどな。」
「伊藤さんは恋敵だし私は真っ向から反旗を翻した敵だし、そばにいてなんて森田さんには許せないことかもしれません。でも変な言い方かもしれませんけど森田さんと変則殴り合いのけんかをしたけどあまり悪い人っていう感じはしませんでした。社長が言われるように根は素敵な人なのかもしれませんね。」
その後に『ちょっと思い上がりが酷いけど。』と付け加えてやろうと思ったが、そのことは飲み込んで黙っていた。
「そうだ、あなた達に頼みがあるんだが、今晩僕が席を設けるから冴子と付き合ってやってもらえないだろうか。冴子には僕から話しておくから。じゃあ午後の七時頃に僕の部屋に電話を入れてくれ。」
社長はそれだけを言うとトレイを持って席を立ってしまった。後に残された僕達はあまりの展開に呆然として言葉もなかった。
「悪いけど私は嫌だわ。あの人がいい人なんて思えない。あなたが悪い人じゃないなんて言うからこんなことになるのよ。あなた一人で行って。私は今度だけは遠慮するわ。」
僕が行こうと言えば断ったためしがない女土方が今度ばかりは何かを言い出す前にはっきりと拒否の姿勢を示したのには僕も少しばかり驚かされた。
「私の場合は武力対決だけどあなたの場合は長い外交神経戦だものね。私とは立場が違うわね。いいわ、私が一人で行くから。とにかくレンタカーを頼んであるんだから出かけよう。急がないともう十時になっちゃうわ。」
僕は女土方を促して食堂を出た。車は昨日南下して来た国道五十八号線を北上して沖縄北部へと向かった。相変わらず明るい海岸線を僕は車を北へと走らせた。女土方は何時になく黙り込んで不機嫌そうだった。
女の力とはいえあれだけ怒りに任せて二回も叩いたのだから向こうも蒙古斑の様なアザがついているに違いない。こっちがこれだけの損害を負ったのだから向こうもそれなりにダメージを被っていてくれないと困る。「とにかく何とかしないと、」と思い病院でもらったガーゼを貼り付けてみたが、余計に目立ってしまうような気がした。
女土方がハンカチで覆っていくように勧めたのでそうすることにして「nana」のタオル地のハンカチを口に当てて部屋を出た。社員のうち出かける者は大方出てしまったようだったが、それでも朝食の用意された食堂にはまだあちこちに同じ職場の者が残っていてこちらを覗いながら何やら小声で話し込んでいた。どうせ昨日の一件はもう知れ渡っているのだろうと思い胸を張って堂々と食堂の真ん中に陣取った。
女土方は少し人目を気にしているようだったが、悪いことをしたわけでもないし僕はかまわなかった。ただ口を大きく開けないので食事が摂り辛いのには少しばかり閉口した。しかし北の政所様が他人の前でお尻を剥かれて叩かれたことをみんな知っているのだろうかと思うと少しばかりどきどきした。そうしてのんびりを装って食事をしていると「ちょっと同席させてもらってもいいですか。」という男性の声がした。聞き覚えのある声だと思って振り向くとそこにはトレイを持って社長が立っていた。
「どうぞ、お掛けください。」
女土方が落ち着いた声で答えた。社長は「ありがとう。」と言うとトレイをテーブルにおいて僕と女土方の間に腰を下ろした。女土方が湯飲みにお茶を注いで差し出すと社長は軽く会釈した。朝食はバイキング形式で和洋中華なんでも選べるが社長が選んだのは魚の干物に海苔と卵、味噌汁に漬物という純和風の朝食だった。最近こんなに典型的な日本の朝食を見るのはめったにないというくらいの純和風だったが、そこにコーヒーが添えられていたのには何ともそぐわない感じがした。
「佐山さん、顔の怪我は大丈夫ですか。本当に申し訳ないことをした。女性の顔なのに冴子にも困ったものだ。知っていると思うけど彼女は僕の異母姉妹でね。よく叱っておくのでここは何とか穏便に許してやって欲しい。怪我の治療費のことは必ず支払わせるので。」
何だ、昨夜の僕と北の政所様との戦闘はもう社長にまで知れ渡っているのか。世間が狭いのかこの種の情報の伝達が早いのか何とも空恐ろしい。この分では僕と女土方のことも知っているのだろう。
「いや、彼女と血縁だからと言って弁護をするわけではないが、冴子もあれで能力はあるし近づいて見れば決して悪い人間ではないのだけど彼女は彼女なりに生立ちにコンプレックスがあっていくら勧めても表には出たがらない。それでも自分の能力には彼女なりの自負がある。その上に周りが煽てる割には本当に彼女に近づいて彼女を理解したり時には叱ったりしようとはしないから余計に孤立して彼女自身もうまく自分のエネルギーを消化できずにああして時々暴走してしまう。
自分自身の責任ではあるけれどそんな彼女を見ていると時々かわいそうになってしまってね。もう年齢的にも落ち着かないといけない年も年だしねえ。何とかならないものかとは思うが、僕の立場であまり動きすぎると私情と誤解されかねない。それでは社内の公平な統率を乱してしまうことになるし彼女も僕に口出しされることを好まないようだ。自分の生い立ちを思うと冴子も素直に僕の言うことを受け入れる気にならないんだろう。僕としてもどうにも動きようがなく困っているんだ。」
社長は器用に干物の骨を剥ぎ取りながらそんなことを誰に言うともなく口にした。どうも僕が北の政所様のお尻を叩いたことは知らないようだった。
「大丈夫です。切れたのは口の中ですから痕は残らないし縫合してあるのですぐに治ります。それに彼女との対決の結果は痛み分けですから。」
僕がそう言うと社長は箸を止めて顔を上げた。
「痛み分けってどういうこと。」
「え、」
女土方が僕を睨んだ。どうも余計なことを言うなと言いたいらしかった。でももうここまで口にしたら仕方ないじゃないか。どうせ遅かれ早かれ知れることなんだから。
「森田さんに顔を叩かれて腹が立ったのでもう一度殴りに来た彼女を抱え込んで思い切りお尻を叩いてやったんです。でも伊藤さんに手を押さえられてたった二回しか叩けなかったけど。本当は十回くらい叩いてやろうと思ったんです。彼女がごめんなさいと謝るまで。でもたった二回でもきっと私の手の跡がはっきりとついていると思いますけどね、しばらくは。」
社長は箸をおいて「へえ」と言う感じで身を乗り出してきた。
「佐山さんは大人しい女性だと思っていたけど見掛けによらずやるもんだねえ。それで冴子、今朝はちょっと様子がおかしかったのか。何だか放心したようで。しかしやるもんだねえ、彼女のお尻を叩くなんて。いや誤解しないで欲しいんだけど変な意味じゃなく見ものだったろうな。佐山さんにお尻を叩かれている彼女って。
母親はけっこう厳しい人だったが、まさかそんなことはされたことはないだろう。それで少しでも変わってくれるといいんだが。あなた達のような人が冴子のそばにいていろいろ意見でもしてくれるといいんだけどな。」
「伊藤さんは恋敵だし私は真っ向から反旗を翻した敵だし、そばにいてなんて森田さんには許せないことかもしれません。でも変な言い方かもしれませんけど森田さんと変則殴り合いのけんかをしたけどあまり悪い人っていう感じはしませんでした。社長が言われるように根は素敵な人なのかもしれませんね。」
その後に『ちょっと思い上がりが酷いけど。』と付け加えてやろうと思ったが、そのことは飲み込んで黙っていた。
「そうだ、あなた達に頼みがあるんだが、今晩僕が席を設けるから冴子と付き合ってやってもらえないだろうか。冴子には僕から話しておくから。じゃあ午後の七時頃に僕の部屋に電話を入れてくれ。」
社長はそれだけを言うとトレイを持って席を立ってしまった。後に残された僕達はあまりの展開に呆然として言葉もなかった。
「悪いけど私は嫌だわ。あの人がいい人なんて思えない。あなたが悪い人じゃないなんて言うからこんなことになるのよ。あなた一人で行って。私は今度だけは遠慮するわ。」
僕が行こうと言えば断ったためしがない女土方が今度ばかりは何かを言い出す前にはっきりと拒否の姿勢を示したのには僕も少しばかり驚かされた。
「私の場合は武力対決だけどあなたの場合は長い外交神経戦だものね。私とは立場が違うわね。いいわ、私が一人で行くから。とにかくレンタカーを頼んであるんだから出かけよう。急がないともう十時になっちゃうわ。」
僕は女土方を促して食堂を出た。車は昨日南下して来た国道五十八号線を北上して沖縄北部へと向かった。相変わらず明るい海岸線を僕は車を北へと走らせた。女土方は何時になく黙り込んで不機嫌そうだった。