何時も冷静客観的な女土方がらしからぬことを言った。どうして社長秘書くらいを懲らしめて会社がひっくり返るのか僕にはよく分からなかった。

「どうして社長秘書にそんなに力があるの。」

「え、あなた、あの有名な秘密を知らないの。彼女は先代社長の隠し子って。」

「先代の隠し子・・・。それじゃあ今の社長と異母兄弟ってこと。うそでしょう。」

「本当に知らないの。彼女はね本当は役員と言うことになっていたらしいんだけど人前に出られる立場じゃないと身を引いたらしいの。でもあの性格でしょう、いくら引いても大人しく納まっていられる訳もないし。却って鬱屈してしまうような形で大奥政治を始めちゃったらしいわ。今の社長は切れ者だけど温厚な紳士だから会社の利害に大きくかかわることじゃないと黙って見過ごしているようだけど。その辺は彼女もよく承知しているから会社の経営の根幹にかかわるようなことには口を挟まずに自分のプライドを充足させられる他の部分で女帝であり続けようとしているみたいだわ。」

うーん、悪いやつだ。そういうのがいるから組織が乱れるのだ。成敗してくれる。

「困った人ねえ。それじゃあ彼女のプライドを充足させるために犠牲になっている人たちが浮かばれないわ。何とかしなくちゃねえ。」

「それはともかくあなたはどうするの。あの人に絡まれるといろいろ面倒よ。」

「どうもしないわ。私は私、仕事じゃないのだから私は自分の好きなようにするわ。」

女土方は首をすくめた。

「確かに仕事じゃないのだからかまわないと言えば確かにそうなんだけどねえ。」

「関わりたくなかったら退いていて。でもそうは言ってもこんなに近くにいたんじゃだめかもねえ。」

「別に私もかまわないけど、でも本当に面倒よ。無茶はしないでね。」

 女土方は本当に心配そうに僕を見た。まあ最悪の場合会社を辞めなくてはならなくなったらフリーで仕事をすればいいのだから何とかならないこともないだろう。しかし佐山芳恵の人生は一体どうなっていくんだろうと思うと少しばかり気の毒になったし、残してきた僕の体がどうなっているのかも気がかりには違いなかった。それでも今そこにある危機を何とかしないことには始まらないと思いを定めて敵の出方を待った。

 そしてとうとう旅行の日、僕と女土方は簡単な旅装で羽田空港の出発ロビーに向かった。団体旅行なので指定された団体カウンターに行くとそこにはもうかなりの人数が集まっていた。勿論その中には馬の骨氏もいたし、うちのチーフもいた。彼等は僕達を見かけると気軽に「よう」などと声をかけて微笑んだが、グループの中にじっと僕達の動向を覗っている者たちがいた。それは勿論北の政所様とその取り巻きグループだった。

 あれからもう一度コンペへの参加について念押しのような打診があったが、女土方から話を聞いて僕には妥協しようなどという気が全くなくなっていたのでほとんど最後通牒とも言うべき言葉で拒否していた。会社の男達はこのことを知らない者が圧倒的に多かったが、女性軍にはほとんど知れ渡っていたので後難を恐れてか僕達に近寄ってくる者はほとんどいなかった。

『孤立無援、以って飛燕の重囲と戦う。』

 沖縄に特攻出撃した時の戦艦大和のごとく相手が何かを仕掛けてきた場合には僕は自存自衛のため徹底抗戦を固く決意していたが、どうも次元の低い戦いであまり気が進まなかった。

 飛行機に乗り込むと酒が好きな者たちはすぐに買い込んでいたビールやウイスキーの栓を開けて飲み始めたが、僕達は静かに本を読んで過ごしていた。機体は特に変わったこともなく穏やかに飛行を続けて約二時間ほどで那覇空港に到着した。そこから待っていたバスに乗り換えてホテルに向かった。北の政所軍団は社長や役員の乗り込んだバスに乗車した。僕達とは離れ離れになったのでしばらくは強烈な敵意の視線を感じることなく一息つけることになった。

 バスは定番のように空港からひめゆりの塔や摩文仁の丘という戦跡めぐりをしてから高速へと乗って北へ向かった。戦争と言うものは何時の時代も無慈悲で悲惨なものだが、ここにはそんな例がそこここに残っていた。特にひめゆりの塔の樹間に巣を張った黄色の縞の入った黒い大きな女郎蜘蛛は死んだ人間の怨念を集めてここに来る人間達を睨んでいるようで不気味だった。

 バスは三十人ほどしか乗っていなかったので座席には余裕があった。僕は一番後ろの席で女土方と二人で南部沖縄の印象などを話し合っていた。酒が好きな者たちは朝から飲んでいたので高速に入るころにはみんな出来上がっていて大声で名前を呼んだり歌を歌ったり嬌声を上げたりバスの中は極めて賑やかだった。僕達のところにも代わる代わる酔客たちが来ては酒を勧めたが、飲みたくもない酒を飲むのがばかばかしいので封を切っていないビールの缶を見せて『お酒はいただいていますよ。』と身振りで示して体よく断り続けた。

 そこにチーフがやって来た。チーフも酒は飲むのだが、あまり乱れることはなかった。チーフは僕達のひとつ前の座席に腰を下ろすと「ちょっといいかな」と言って体を捻って後ろを向いた。

「今日は天気も良いしいい旅行日和だねえ。ところで佐山君、体の調子はどうかな。もう大丈夫か。」

 チーフは当たり障りのない話題から切り込んできたが、正直な人なので顔にはもっと他のことを聞きたい様子がありありと見て取れた。

「ええ、お蔭様で。もう大丈夫です。」

「そうか、君が入院したと聞いた時は本当にびっくりしたよ。お互い様だが無理はいけないな。大事にしないと。」

 チーフは勝手にうんうんと頷いていたが手持ち無沙汰そうだったので手元にあったビールの缶を「どうぞ」と差し出してやった。それでも口を切ったまま切り出せないでいるので僕の方から「何かお聞きになりたいことがあるようですね。」と切り出してやった。それでも「いや特にこれと言うことがあるわけじゃないんだが・・・」などと口篭っているので「顔に書いてありますよ。」と言って喝を入れてやった。

 女土方は横で笑いを堪えていた。この会社の男供も人は悪くないのだがお公家様集団と言うのかお淑やかなのが多くて迫力に欠ける。女が多い職場だからそうなるのか類は友を呼ぶのか知らないが、こんなことではどこかの会社に敵対的買収などかけられた日にはひとたまりもないだろう。

「実はちょっと小耳に挟んだんだが、佐山君さあ、社長秘書の森田さんともめてるんだって。」

 ほら、お出でなさった。『あんな我儘な他人の迷惑も考えない自己中心全開の馬鹿女なんか何かしでかしたらけつをひん剥いて泣いて謝るまで叩き飛ばしてやる』なんて言ったらこの男一体どんな顔をするんだろう。

「もめているなんて大げさなことじゃないですよ。明日、ゴルフに誘われたんですけどまだ創口が完全に安定しないのでお断りしただけです。そのようにお話したので森田さんにもお分かりいただけたと思っていますけど。」

 僕は出来るだけ淡々と説明したつもりだったが、チーフは益々考え込んでしまったようだった。大体今回のことは僕が吹っかけられたけんかなのだからこの男が悩むこともなかろうにそのあたりが小心なのか真面目なのかよく分からなかった。

「せっかくの旅行なんだからどうか穏やかに。君は大人だから僕の言わんとするところはよく分かってもらっているとは思うけど。」

「つまり相手が大人じゃないからうまくあやしてやれと言うことをですか。」

 僕はこちらにだけ隠忍自重を求めるようなチーフの言葉に腹が立ってきついことを言ってやったら女土方に脇腹をど突かれてしまった。

「いや、そんなことを言ったら何ともおかしなことになってしまうが、まあひとつ、ここは穏やかに楽しくやろうよ。」

「チーフ、私は何もことを荒立てようなんて少しも思っていません。楽しくお休みを過ごせればそれに越したことはないと思っています。でもそれは私だけの事情で決められるものでもないのかもしれません。そうじゃないですか。自存自衛ってご存知ですよね。個人にも自衛権ってあるんじゃないんですか。」

その時また女土方に脇腹を突かれた。

『何だよ、何度も何度も。』

 僕が女土方の方を振り返ると女土方は前を見ろと仕種で僕に知らせた。前を見るとこのバスに乗っている者ほとんど全員が後ろを振り返って僕達の様子を覗っていた。どうも今回のことはほとんど会社全体に広まっているようだった。事ここに至っては僕としても開戦必至の覚悟を固めないわけにはいかなかったが、敢えて自分から行動を起こすことは何もないので取り敢えずは旅行を楽しむことにした。

 バスは許田のインターで一般道に降りて万座ビーチリゾート方向に海岸線を戻り始めた。さすがに南国とあって初冬とはいえ海は輝いて明るかったが、それでも海に入って泳いでやろうと思うような気温ではなかった。そんな景色に見とれているうちに間もなくホテルに着いた。

 ロビーで部屋が割り振られてそのまま屋に入った。部屋はグループ用の四人部屋で僕と女土方に一緒に新企画の仕事をしていた若い女性と査定の女土方の同僚で三十代の既婚の女性が同室になった。男の部屋割りは適当に割り振ればそれで良いようだが女の場合は極めて難しいらしい。

 普段の付き合いの度合いやトラブルの有無を細かく調べて組み合わせてもいろいろと苦情が出るらしい。そして一旦決まっても裏交渉などが長期間なされてやっと最終的な部屋割りが決まるらしい。女の部屋割りが収まると担当者は安堵の胸をなで下ろすらしい。まあそれにしても三人の女と同室なんて胸がどきどきしてきてしまった。

 部屋に入ると女たちはまず窓際に駆け寄って「きれいねえ、素敵だわ。」とその景色に感嘆の声を上げた。確かに景色が良くないとは言わないが、今までバスの窓から散々眺めてきた景色じゃないか。それが終わると今度は室内の調度などの品定めだった。常日頃から繰り返されることとは言え女のやることは何時でも何所でも同じだった。

 一通り景色や室内の査定が終わると今度は荷物を開いてそれぞれが持って来た衣類やらバッグやらその他諸々の所持品の品評会だ。きれいだのかわいいの本当は自分のものが一番だと思っているのだろうに殊更に他人様のものをほめ合うなんてご苦労なことだ。

 僕はさっさと着替えてしまってベッドに腰掛けて、さあ女ども早く着替えろと思いながらこの女たちを眺めていた。女土方は見慣れているが、他の二人は初めてなのでなかなか興味深い思いだった。女も決して賢い生き物とは言い難いが、男と言うのもどうも女のことをとやかくは言えない生き物のようだ。