ただし今回は生まれて初めての社内旅行にこれも生まれて初めて女として参加することに興味を覚えた。

「カラオケはどうでもいいけど旅行は行ってみたいわ。案外楽しいのかも知れないね。」

 僕は怪訝な顔をしている女土方に向かってそう言った。しかしそんな僕の言葉に女土方は益々怪訝な表情になった。

「あなた、大丈夫なの。変なことばかり言って。これまで毎年いやになるくらい行っているでしょう。社内旅行に。」

「麻酔のせいなのかな。ちょっと頭がぼうっとしていて。」

僕は適当に言い繕っておいて目を閉じた。これ以上しゃべっていると本当にぼろが出そうだった。

「疲れているのね。お腹を切ったばかりだものね。休みなさい。」

 女土方はやさしく毛布を僕の体にかけてくれた。それから静かな時間が流れた。僕は目を瞑ってベッドに横たわっていた。その脇で女土方が黙って僕を見守っていた。そして僕はそのまま朝まで眠ってしまった。目を覚ますと女土方が微笑んでいた。

「お早う。よく眠れたようね。」

きっとまた一睡もしていないのだろうに女土方は疲れた様子も見せなかった。

「お早う。何だかよく眠ったような気がするわ。身体もずい分楽になったわ。」

 僕は女土方に笑顔を返した。痛みは当然残ってはいるものの確実に回復して実際に体はずい分楽になったような気がした。

「もう大丈夫よ。少し休んで。」

 僕は自分のことよりも丸二日も寝ていない女土方が心配だった。ところが意地を張るかと思った女土方は意外にも「そうね、もう点滴もない様だし、あなたも元気そうだから。じゃあ少し休むわ。」と言うと簡易ベッドに身体を横たえてすぐに軽い寝息を立て始めた。きっとずい分疲れているのだろう。

 僕は女土方の寝顔を見ながら夕べ女土方が話していた社内旅行のことを思い出した。チーフは佐山芳恵が劇的に変わったことを不思議がりその佐山芳恵とじっくり話したいと言っていたようだが、話して分かることと分からないことがある。きっとまたこれまで何度も繰り返してきたような珍問答がまた繰り返されるんだろうと思うと鬱陶しかったし、その他にも馬の骨氏ともまた向き合わなくてはならないことなど面倒なことも多かったが、人生初参加の社内旅行しかもその初参加に女として参加するというおまけ付きの出来事に下世話なものを含めて僕は少なからず興味を感じていた。

 しかし考えてみれば僕も大いに強かな人間だと呆れてしまった。この間目が覚めたら女に変わっていて天地がひっくり返るほどびっくりして取り乱したのにそれからたったの数ヶ月で女として強かに生活を生き始め、そればかりか女としての生活をけっこう楽しんでいるのだから。これも男だった時から好奇心が強かったのが幸いしているのかも知れない。逆境に滅入ってしまえばそれで終わりだけど何でも興味を持って取り組めばけっこう面白いものなんだ。

 この日の昼から食事が出た。スープとジュースだけの流動食だったが、直接口から食物を摂るという行為は人間にずい分力を与えるものだ。冗談ついでに酒を飲まずに血管にアルコールを注射したらどうかと提案して酒飲み諸氏の顰蹙を買ったことがあるが、アルコールにしても食物にしても口を経て体に入るということについては似たようなものなのかもしれない。

 午後の検診も問題なく創口の回復も順調だった。そしてこれを機に旦那医者に伺って付き添いの女土方には自宅に引き上げてもらうことになった。最もその女土方は検診の時も泥のように眠っていて旦那医者と僕のやり取りは全く蚊帳の外だったのだが。

 元々佐山芳恵の体が丈夫なのか僕の療養に対する心がけがよかったのかそれは分からないが、その後も順調に回復して手術から六日目には病院を出されてしまった。大体このような小規模な病院では僕のような外科手術の患者を入院させるのはかなりの負担になるようだ。出来れば長くは置きたくないのだろう。暫くの間定期的に通院することを条件に退院することになった。

 退院先は勿論女土方の家だった。一緒に暮らそうと言ってしまったのだからこれは女土方が拒否しない限り当然の帰結だった。これで僕と女土方は完全な同居生活に入ることになった。僕にしてみればこれは単純に男と女の同棲だったが、世間から見ればただならぬ怪しい匂いのするビアンの関係ということになるのだろう。そのことで何かしらの問題が起きることは承知のうえだったが、これは純粋に個人の問題で何も犯罪行為をしているわけでもないのだから気にさえしなければそれも単に生活騒音のようなものだと思っていた。

 退院後数日自宅で休養しただけで僕は職場に復帰した。女土方はしきりに休養を取るように勧めたが、旦那医者も出勤してはいけないとはいわなかったし、僕自身自分が始めた仕事は自分で完成させたいと言う思いが強かった。それでもさすがに最初の数日は定時で帰宅して体を休めたが、一週間もすると企画の最後の仕上げに邁進するようになり帰宅も深夜に及ぶことは珍しくなかった。

 そうしてそれなりに心血を注いだ企画は創設記念日に先駆けて発売された。大方の予想に反して英語を戦い抜くコースの方に圧倒的な注目が集まったのには少し驚かされた。やはり真剣に英語を身につけたいと思う者が多いのか、それと企業からはオプションが豊富なことが喜ばれた。それはたくさん選べるからということも理由には違いなかったが、それにも増して必要なものだけを選択することでコストを抑えられることが受けたようだった。

 こうして企画は大ヒットとは到底言えないまでもそれなりに好意的に受け入れられたことに会社も気を良くしたようだった。しかし講師の数やクラスを開く場所の問題もあり、テストケースとしては上出来かも知れないが、大ヒットしたとしても大々的に売り出すことは不可能だった。それでも一応は成功と認定されたことから僕は晴れて大手を振って密かに好奇心を巡らしている社内旅行へと出発できることになった。

 女土方は敢えて旅行に参加することには不賛成のようだったが、馬の骨氏も当然参加することを割り引いても僕の好奇心は治まらなかった。あの旦那医者に確認を取って女土方を説得した。さすがに女土方も渋々納得して参加を認めたが、僕が無茶をしないよう自分がお目付け役としてそばにいると強硬に主張した。そしてこればかりは世話になった僕としては飲まざるを得なかった。いわゆるひも付きの旅行になってしまったが、僕にしてみればいろいろと会社員というものの生態を観察したいという気持ちやそれにも増して女という生き物の生態を観察したいという興味が強かった。これは興味というよりも好奇心と言った方が適当かもしれない。しかも今の僕はそれを間近で直接見聞出来る立場にあるのだから。

 好奇心と言うのはあまり高い評価を受けないかもしれないが、人間の進歩の根源はこの好奇心にあると僕は確信している。何か新しいものを見たい知りたい感じたいと言う気持ちがあればこそ人間はここまで進歩したのだと思うし、また反面些細な個人間の摩擦から戦争まで様々なトラブルの元にもなっているようにも思う。しかし今回の僕の好奇心はまことに低俗なレベルのもので人類の進歩などとは全く関係のないレベルのものには違いなかった。

 社内旅行はそんなものがあるということを知らなかったのだから当然行き先も知らなかったのだが、二泊三日の沖縄だった。万座ビーチリゾートのホテルに宿泊して最初の晩に大宴会そして二日目は各自自由行動、三日目は那覇市に移動して観光とショッピング、まあ会社の旅行にしては洒落ているのかも知れないが、初冬の沖縄に行っても南国とは言え決して暖かいとは言えず何とも中途半端な気がしないでもなかった。その分料金は安いのだろうが。

 ところが出発前に総務の方から声がかかった。メッセンジャーは何と馬の骨氏の恋人だったが、黒幕は社内随一のやり手女性と言われている社長秘書の北の政所様だった。この女は僕や女土方よりもひと回り年上の女性だったが、切れ者と評判の美人で何時も社長と行動を共にしていた。それで社長の愛人などと言う者もいたが、社長は評判の愛妻家だそうだからそれはどうも眉唾のようだった。しかし行動力もあり社長の信頼も厚いとあって社内での発言力は役員を凌ぐと言われるほどの実力者だった。その反面恐ろしくプライドが高く社内で自分の親衛隊のようなグループを従えて自分の手の内に入らない者は徹底的に叩くと言う性格の良くない面も持ち合わせた女性のようだった。

 お誘いの内容は社内旅行の二日目に一緒にゴルフをしないかということだった。僕はゴルフなどしないのでそれを言って簡単に断ってしまったが、後で考えてみたら押入れにゴルフクラブが入っていたのでもしかしたら佐山芳恵はゴルフをしたのかもしれないと思い出した。どっちにしても僕自身はゴルフをしないし二日目はレンタカーを借りてドライブをしようと車の予約を入れてしまったのでそのまま放って置いた。家に帰ってそのことを女土方に話すと女土方は顔を曇らせた。

「あなた、ゴルフをするんでしょう。付き合ってあげればいいのに。断って面倒なことにならないといいけど。」

 佐山芳恵から『私はゴルフをしますから引き続きそれなりによろしくお願いします。』とでも引継ぎでもあればそれなりに考えるが、いきなり変わってしまったのだから知らなくても仕方あるまい。

「あの人はねえ、頭も良いし仕事もすごく出来るんだけどプライドが高くてねえ。自分のことを社長と同格くらいに思っているんじゃないかしらねえ。お誘いを断って逆鱗に触れなきゃいいけどね。」

 女土方は本気で心配しているようだった。確かに女の嫌がらせは陰湿なのが相場のようだが、何かをしてきたら自存自衛のため反撃するだけだ。

「何時かのあなたのようにいきなり抱き締めて唇を奪うって言うのはどう。」

「あなたって本当に節操のないいい加減な人ね。まるで男の人みたい。」

 女土方は露骨に嫌な顔をした。それは男なんだから男の節操しか持ち合わせていないのは仕方ないだろう。

「それにね、あの人はバリバリのヘテロよ。彼がたくさんいるわ。」

「あら、そういうことは普通の人って言うことね。やっと普通の人が登場したのね。」

「あなたは私を馬鹿にしているの。どうせ私は普通じゃない変態よ。あなたは普通の人なんだから普通の人とお付き合いすればいいわ。もう口なんか聞いてあげないわ。」

僕が笑うと女土方は本気で怒り出した。鬼の副長の目に涙じゃないが、女土方は涙さえ浮かべていた。

「そういう意味で言ったんじゃないのよ。私が悪かったわ。ごめんなさい。許して。」

 僕は怒った女土方を前に真剣に謝らざるを得なかった。女がへそを曲げると撚りを戻すのに偉く骨が折れるのはビアンだろうがヘテロだろうが同じことのようだった。僕の無神経な言い方も悪かったのだろうが、それはもう大変な苦労をしてやっと女土方の怒りを解くことが出来た。

 怒りの収まった女土方が語ったところによると彼女自身も以前に些細なことから目をつけられたらしいが、女土方の仕事の能力には北の政所様も一目置いていたようだし女土方には彼女なりの人の繋がりがあったことからお互いの間に深い亀裂を生じないで済んだらしい。しかし自分の気に入らないからと言ってあれこれ文句をつけられてその上他人の力で報復されたりした日には傍迷惑この上ないことだ。そんな女は後ろから蹴飛ばして泣いて謝るまでけつでも叩いてやればいい。僕はそういう意味のことをやんわりと女土方に伝えると女土方は首を竦めた。

「おおこわ。まさかあなた、本当にそんなことをしようなんて考えているんじゃないでしょうね。今のあなたじゃやりかねないからねえ。でも大変なことになるわよ。会社がひっくり返るくらい。」

 何時も冷静客観的な女土方が