「寒くないですか。」

看護師は僕の足や胸に手術に良く使われているあの緑色の分厚い布をかけてくれた。

「先生、尿道カテーテルはどうしますか。」

愛想なし看護師が男医者に聞いた。

「止めてください。」

僕は思わず叫んでしまった。

「そんなもの部分麻酔だから必要ないでしょう。」

 口に出してから余計なことを言ってしまったかと思ったが、旦那医者は僕の言うことを認めてくれた。でも女は男に比べて構造的に失禁し易いらしいので腰部に麻酔がかかったら自分のことながら確固たる自信はなかった。それでもカテーテルなんて入れられてたまるもんか。

 それにしても麻酔の効果でその部分を含めて肝心なところの感覚は全くなくなっていた。おそらくT字帯も外されているんだろうが、それも全く分からなかった。もっともそんなものを外されたことが分かるくらいの感覚が残っていてそんな状態で腹を切られたら痛みで飛び上がるだろうが。

 腕もいろいろチューブや器械がつけられているのでかろうじて動かすことが出来る右腕を少し曲げたら年配看護師に「消毒が済んでいるので体に触らないでね。」と注意された。消毒されたのも全く分からなかったので麻酔はしっかり効いているんだろう。

 そのうちに周囲の動きがなくなって静かになった。どうしたのかと思っていると旦那医者が「痛いですか。」と聞いた。何も感じないので「痛くありません。」と答えると「そうですか、痛いことをしているんですけど。」と言われて手術が始まったことを知った。その後レーザーメスで焼かれた自分の肉の焦げる臭いが鼻を突くように広がってきた。

 しばらくすると皮膚を強く引っ張られる感覚が続いた。目の前にはカーテンが引かれて何をされているのか全く見えなかったが、創口を広げているのだろうと思っていた。

「ねえ何をしているのか鏡で見せてくれない。」

 僕は突然好奇心に駆られて右側に立っている愛想なし看護師に頼んでみた。好奇心のほかにもこの体を佐山芳恵に返す時に何があったのかを話してやらなくてはいけないと思ったからだった。愛想なし看護師は困った顔をして旦那医者を見た。

「かまわないよ。鏡を持ってきて見せてあげなさい。」

 愛想なし看護師は鏡を取り上げるとちょうど手術をしているところが見えるように角度をつけてくれた。当たり前のことだけどT字帯は取り除かれていて半分になった下の毛が少し小さめに黒く見えた。そしてその右上の白い皮膚が切り裂かれて真っ赤な真皮層や筋組織がむき出しになっている部分が目に入った。そこに金属の拡張器が取り付けられて創口を大きく広げていた。そんなに切り開かれている割に出血はほとんど見られなかった。

「八センチほど切開しました。後が目立たないようにしますから大丈夫ですよ。それから腹膜炎はありましたがそれほどひどくはないので腹膜は洗浄と消毒だけで大丈夫でしょう。これから腸を調べます。ちょっと苦しいかも知れませんけどその時は言ってください。」

 旦那医者の言うとおり内臓を引っ張られるような息苦しさがすぐに始まった。これも苦しいと言っても始まらないので黙っていた。

「佐山さん、小腸に癒着があります。剥離しても再癒着が起こるとやっかいですから切除します。少し時間がかかるかもしれません。」

 旦那医者はいとも簡単に切除すると言った。確かに九メートルもある小腸を少しくらい切ったからと言って特に影響もないだろうが、何だか佐山芳恵に悪いような後ろめたさを感じた。いずれにしても本来の持ち主に相談することも出来ないのでここで何を言われても受け入れるしかなかった。愛想なし看護師がまた鏡を構えて創口を見せてくれた。今度は赤い肉の間に白い腸が引き出されて見えた。胃を引っ張られるような苦しさは相変わらず続いていたが、こればかりは耐えるしかなさそうだった。

 ドアが開く音がしたので入り口を見ると女医者が入って来た。そして旦那医者と並んで何か専門用語を使って話していた。僕の症状について話していることは分かったが、さすがに麻酔や鎮静剤の影響で意識が朦朧として何を話しているか聞き取る気にはならなかった。

「佐山さん、大丈夫。もう少しですからね。」

 女医者は僕の頭の脇に来て言葉をかけた。僕は黙ったまま頷いて答えた。それからしばらくすると息苦しさが消えて楽になった。

「処置は終わりました。これから創口を縫合して終わります。」

 旦那医者の声が聞こえるとまた愛想なし看護師が鏡を構えて縫合を見せてくれた。また皮膚を強く引っ張られる感覚がしばらく続いた。それが消えると手術は終わったようだった。体を横向きにされて麻酔のチューブが抜かれ手術がすべて終わった。

「終わりました。この部分に癒着があってかなり進行している状態だったのでもうしばらく放って置いたら腸閉塞を起こしていたかもしれませんでした。」

 旦那医者はガーゼの上に置かれた少し皺がよって捩れた幅広干瓢のようなものを見せてくれた。見せてもらっても仕方がないのだが旦那医者がいろいろ説明するので頷きながら聞いていた。

「それじゃあここでしばらく休んでから病室に戻ってください。歩いて戻ってもかまいませんけど二十四時間は安静にしていてください。」

 旦那医者が出て行くと後に残った女医と二人の看護師が体につけられた器具やセンサーを外して捲り挙げられた手術着を元に戻してくれた。麻酔が切れるとすぐに体の感覚が戻ってきたが、同時に痛みも鮮明になってきた。我慢が出来ないというほどではないがやはり腹を切ったんだなと認識できる程度の痛みだった。

「病室に戻りますか。」

年配看護師が僕に聞いた。

「立ち上がってもいいの。」

「ええ、でも急に立ち上がると目眩がしたり膝に力が入らないで崩れたりするからゆっくり起きてくださいね。」

 普通に真っ直ぐに体を起こすのにはちょっと不安があったので僕はゆっくりと体を横向きにしようと動かし始めた。

「私につかまって。」

女医者は僕の体を抱えて抱き起こそうとした。

『しめた。』

 僕は女医者の首に手をかけるとまた自分の方に引き寄せて強く抱き締めた。これも見事に決まって僕と女医者の体が密着した。女の体になるということも悪いことばかりではないかも知れない。

「そんなに強くしがみつかないで。動けないわ。」

 僕が無意識に抱きついたと思ったのか女医者が声を上げたが、愛想なし看護師はさっき自分がされたばかりなので女医者がもがく姿を見て後ろで笑っていた。

「ちょっと待って。落ち着いて。」

 落ち着いているからこそこんなことをしているのだが、女医者が叫んだのでその声を潮時に僕は女医者から手を離すとゆっくり体を横に向け直して手術台の端に座り足を下ろした。膝に力が入ることを確認するとゆっくり立ち上がった。そしてゆっくり足を進めて歩き始めた。

「大丈夫ですか。」

年配看護師は点滴のバッグを掲げて僕のそばに付き添って病室まで一緒についてきてくれた。

「ただいま。」

 僕は病室で待っていた女土方に声をかけた。女土方ははっとしたように顔を上げると僕のそばに駆け寄った。

「終わったのね。早く横になって。体を休めて。」

女土方は僕の体を支えてベッドに体を横たえるのを手伝ってくれた。

「ね、T字帯が血で汚れているわ。外すからじっとしていてね。」

女土方は本当に繊細なガラス細工の宝物でも扱うように丁寧にT字帯を外してくれた。

「今夜はこのままでも差し支えはないわね。さあ私がずっと見ていてあげるから安心してゆっくり休みなさい。」

女土方は僕の手術着の裾をそっと戻すと毛布をかけてくれた。