女土方は黙ってベッドの脇に置かれた椅子に座って僕を見ていた。穏やかな表情をしていたが、何だか一瞬でも僕の容態を見逃すまいと神経を集中しているように見えた。

「ねえ、お願いがあるんだけど看護師のお姉さんに言ってT字帯を一つもらってきてくれない。」
女土方はちょっと怪訝な顔をした。

「どうしたの。汚したの。」

『そんなことを聞くものじゃない。日本男児たるもの命をかける時には真新しい下着を着けるものと相場が決まっているんだ。黙ってもらって来い。』

 まさか女土方にそんなことは言えないので「大丈夫よ、でも汚すかもしれないから予備に置いておきたいの。お願い。もらって来て。」とちょっと弱弱しく言って女土方を従わせた。
時間はまだ昼前だったので手術が始まるまでには四時間以上もたっぷりと時間があった。しかし時間はあっても好きなコーヒーも飲めず、物も食えず、タバコはご法度、点滴につながれた不自由なわが身ではせいぜい本を読むくらいで他にすることもなかった。

 最初のバッグが空になり二つ目が空になりそして最後のバッグもそろそろ尽きようとした頃、あのあまり愛想のない看護師がトレイに注射器を載せて入って来た。

「それじゃあ佐山さん、点滴を終えてそろそろ手術の準備に入りましょう。麻酔の準備のために鎮静剤を注射しますけどちょっと痛いですよ。今日一番痛い注射ですけど必要な処置なので我慢してくださいね。」

 看護師は手早く点滴の針を腕から抜くとうつ伏せになるように言った。そして僕がうつ伏せになるといきなり臀部に針を突き立てた。

『何事にも心構えというものがあるのだから一言断るのが武士の情けというものだろう。武士は寝首を掻いたと言われては恥だと相手の枕を蹴上げて起こしてから切りつけたというじゃないか。』

 心の中で文句を言ってやったが、佐山芳恵から受け継いだぶ厚い脂肪層が相応の防御効果を挙げたのか僕自身の感覚が鈍いのか看護師が言うほど痛いというほどの物でもなかった。

「大丈夫ですか。痛くなかったですか。」

 愛想のない看護師は心配そうに僕を覗き込みながら注射したところを揉んでくれた。その手の動きに合わせてお尻の脂肪層がゆるゆると不規則に揺れた。

「別に痛くはなかったわ。」

 僕は正直な感想を述べたが、看護師は半信半疑で「皆さんこれが一番痛いと言われるんですけどね。」とずい分長く僕のお尻の肉を揉んでいた。だったら余計に一言断れ。人の尻だと思っていきなり針を突き立てるんじゃない。

「それじゃあすぐに迎えに来ますからその前に済ませることがあったらどうぞ。」

 看護師が出て行くと僕はパッという感じで起き上がってトイレに行った。朦朧とすると言われたが特にその兆しはなかった。トイレから出て来ると入口で女土方が待っていた。

「鎮静剤を注射して大丈夫。ふらついたりしないの。気をつけてね。」

 女土方はずい分気を使ってくれているようだが、今のところ僕には鎮静剤の効果は特に顕著には現れていなかった。

「ねえT字帯をくれない。」

 僕はさっき女土方に頼んでもらって来た新しいT字帯を身に着けてさっきもしたようにあまった端末を紐の内側に折り込んだ。

「それは武士のたしなみってこと。」

女土方が古風なことを口にした。

「そうよ、知ってたの。私たち女新撰組かしら。あなたが女土方で私は女近藤かな。ここで切腹ね。」

 僕は冗談のつもりだったが、女土方はとても嫌な顔をした。そして黙ってそばに歩み寄ると僕を抱き締めた。

「大丈夫、すぐに終わるわ。元気で帰って来て。」

女土方は小さな声で呟いた。

「大丈夫よ、あの旦那医者も難しい手術じゃないって言っていたでしょう。」

 僕は軽く女土方を抱き返すとすぐに体を離してベッドに横になった。これにはちょっと訳があった。看護師が来る前に立っているところを見られては具合が悪かったので急いで横になったのだった。そこに愛想なし看護師が入って来た。

「佐山さん、それじゃあ手術室に入りましょうか。」

「ええ」

 僕は意識朦朧を装って看護師の次の行動を待った。薄目を開けて見ていると女土方は急に僕が朦朧としたのに驚いているようだった。

「大丈夫ですか。起きられますか。」

看護師は僕に声をかけたが僕はまだ動かなかった。

「じゃあ私につかまってくださいね。いいですか。」

 看護師は腰をかがめて僕の体の下に腕を入れた。僕はこの時を待っていたのだ。僕が看護師の首に腕を回すと起き上がるふりをして体重をかけた。そして看護師を思い切り引き寄せて力いっぱい抱き締めた。

『今のお前の姿勢が重力に耐えるには一番脆いことを知らないのか。』

 突然のことに看護師は一体何が起こったのか分からないようにしばらくじっとしてそれでも大柄な僕を抱き起こそうとしていた。それを強く抱き締めるに従って看護師の体が僕の体と密着して看護師の胸のふくらみが僕の体に密着してゆっくりとつぶれていくのが感じられるようになったところでようやく看護師はこの状態から逃れようともがき始めたが、重力を味方に加えた僕の方が力はずっと強いようだった。

 看護師が真剣に逃れようとし始めたところで僕はぱっと腕を解放してやった。看護師は突然解放されて勢い余って後ろに二、三歩よろめいてから立ち止まって肩で息をしていた。女土方に昨日の晩やってやったあのいたずらだった。それを見ていた女土方は声を抑えて笑っていた。思い知ったか。

「じゃあ行ってくるわ。」

 僕は女土方に軽く手を振ると自分で廊下に出て手術室に歩いて行った。

 手術室はちょっと広いリビングといった程度でよくテレビで見る総合病院の手術室などとは比べるべくもなかったが、それでも手術台の周囲は医療器材でかこまれていてそれなりに威圧感があった。
中には少し年配の看護師が一人いた。年配と言っても四十前後のように見えたから今の僕つまり佐山芳恵と同年代くらいになるのかもしれなかった。その年配看護師は僕を手招きすると「ここに横になって。」と手術台を示した。僕は黙って頷いて手術台に上がった。

「それじゃあ準備を始めますから。緊張しないでと言っても無理かも知れないけれど、気持ちを楽にしてね。」

年配看護師は僕に向かって微笑みかけた。

「もう覚悟は出来ているわ。そんなに難しい手術じゃないと言うし、大丈夫よ。」

 僕は年配看護師に向かって微笑み返した。年配看護師は黙って頷くと手術台に近づいて僕の手術着のホックを外し始めた。表を外し終わると横を向かせて背中側のホックを外した。これで手術着は縦に真二つになりそのまま巻き上げれば脇から下が完全に露出することになる。戻す時はそのまま引き下ろしてホックを止めれば元通りになるのだから、当たり前のこととは言えなかなかうまいことを考えたものだ。こういうものが何処かで別の目的で使われているかも知れない。その後すぐに旦那医者が入って来た。

「それじゃあ佐山さん、これから麻酔処置を始めます。左を向いて横になってください。」

 僕は一言「お願いします。」と答えると旦那医者に背中を向けた。

「背筋を真っ直ぐに伸ばしてください。真っ直ぐに、もっと真っ直ぐに。」

男医者はそう言いながら僕の背骨の節を一つづつ指で探り始めた。

「じゃあ今から麻酔のチューブを入れます。痛かったら我慢しないで言ってください。」

 その言葉が終わらないうちに背中に何かが刺さる感じがした。その後でそれよりも太いものが背骨の関節に押し入ってくる感じがしたが、圧迫感ばかりが強く痛みは感じなかった。最初に何かが刺さる感じがしたのが局部麻酔の注射だったのだろう。

 太い針のようなものは僕の背中で出たり入ったりしているようだったが、そのうちに動かなくなった。これで終わりかと思ったらまた別のところにちくりとした痛みが走って同じことが繰り返された。痛ければ言ってくださいと言われたが、不快感は強かったものの体に針を刺せば痛みがあるのは当たり前だし殊更強い痛みはなかったので黙っていた。

「大丈夫ですか。痛くないですか。」

 年配看護師が聞いたので「痛いけれど針を刺せば痛いのは当たり前だから言っても仕方がないので言わなかった。」と答えた。

「少しも痛そうな顔をしないから。痛かったら遠慮なくそう言ってくださいね。」

 痛いと言えば痛くないように出来るのなら最初から痛くないようにやれと言いたかったが、この状態でけんかを始めるのは極めて不利と悟り「分かりました。」と答えてその場を収めた。麻酔がかかってしまうと何だか体の真ん中だけが自分のものではないような感じになってしまってその感覚に戸惑いを感じた。

 その後、また点滴の針が腕に刺さり血中酸素濃度測定センサーやら血圧計やら心電図センサーやら酸素吸入マスクやら体にいろいろなものがつけられ、さながら製造中のサイボーグのようにされてしまった。大した手術でもないのにこんなに仰々しくいろいろ付属品が付くのかと気が滅入ってきた。