「かあさん、車のキーを頂戴。」
僕は佐山母から車のキーを受け取ると庭に出た。庭の隅のカーポートには佐山父が使っていた車が停めてあった。あまり使っていないらしく車体には随分埃が積もっていた。エンジンがかかるかどうかちょっと心配だったが、寒冷地用で大容量のバッテリーを使っているせいかキーを回すとすぐにエンジンがかかった。
「車を洗ってガソリンを入れてくるわ。法事でお客さんの送り迎えに車がいるでしょう。」
僕は車に乗り込む前に女土方の方を見た。『一緒に行こう。』という意思表示のつもりだった。女土方はすぐに分かったようでさっさと助手席に乗り込んだ。
「あなた、車の運転は大丈夫なの。何時もは頼んでもしないくせに気をつけなさいよ、本当に。」
佐山母が叫んでいたのでちょっと脅かすつもりで急発進をするとかなり乱暴な運転で道路へと出て行った。ルームミラーには呆れた顔の佐山母が小さく写っていた。
「なかなかやるじゃない。でも女親と娘と言うのはどこでも幾つになっても同じなのねえ。」
女土方は僕と佐山母とのやり取りも僕の荒っぽい運転も余裕で面白がっていた。佐山家から少しばかり走ったところでスタンドを見つけてガソリンを満タンにしてから車を洗車機にかけた。元々ポリマー加工か何かをしてあったようで洗車が終わると車は見違えるように輝き出した。
戻る時も佐山母との会話で少し苛立っていたので車の運転が荒くなったが、佐山母一人くらいの相手をしてうんざりしているなんて自分の見通しの甘さを痛感させられるような出来事が待っているなどとは思いもしなかった。
佐山家に戻ると弟君の先導で会場のお寺に向かった。朝里川沿いにしばらく走ったところから少し奥に入った山裾にある静かな寺だった。法事なんていうのは大体お寺さんでお経を聞いてその後宴席を設けて食事をしてお開きと言うのが一般的だった。その宴席にしても車で来るものが多いので一時間か二時間程度も我慢していれば終わってしまう。大酒を飲んではめをはずすものもあまりいないし愚痴をこぼす者もいない静かな宴席のはずだった。
会場のお寺にはまだ誰も来ていなかった。僕は住職に挨拶をすると本堂の前で女土方と一緒に参列者が来るのを待っていた。僕たちから少し離れたところに弟君と許婚さんが立ってこちらを伺いながら何か話し合っていた。多分僕が、いや佐山芳恵がおかしくなったとでも言っているんだろう。確かにそう言われてもそれも仕方のないことなのだが。
「静かで良い所ね。」
女土方が独り言のように呟いた。
「こんなところでのんびりと暮らしたいわ。」
こんなところと言うが、冬になれば半端でないくらい寒いだろうし、何よりも短い間ならいいだろうが、東京になれた人間がこんなところにいたら刺激が少な過ぎて飽きてしまうに違いない。
「そうかな、たまに遊びに来るのならいいけど生活するとなれば大変だと思うけど。特に東京の便利さに慣れてしまった人には。」
「今はネットもあるし何処でも何でも手に入るじゃない。」
「そうしようと思えばそれはできるでしょうけどちょっと出かけたついでにと思っても何もないわよ。」
「特に何も要らないけどなあ。穏やかに生活できれば。それで十分だと思うけど。こんなところで一緒に暮らせるといいわね。」
「ここじゃあ目立って仕方ないわ。女の同居なんて東京だから出来るのかも知れない。」
僕たちはそんな取り留めのない話をしばらくしていたが、そのうちにポツリポツリと人が集まり始めた。大方が佐山芳恵の親と同世代の初老の男女だったが、中には僕じゃなくて佐山芳恵と同世代と思われる年恰好で小さな子供を連れた男女も混じっていた。
本堂の入り口で待ち構えて挨拶をするのだが、これがなかなか難物で簡単にはいかなかった。大体どれもこれも僕の姿を見ると小走りに駆け寄って来て「あらあ芳恵ちゃん、しばらくねえ。元気だった。女独り東京で生活するのは大変でしょう。元気でやっているの。誰かいい人は見つかった。お仕事大変でしょう。体壊したりしなかった。」なんてことを機関銃のように次から次へとまくし立てた。
『東京の女独りの生活よりも目が覚めたらいきなり見ず知らずの女の体になっていて全く違う境遇の中で生活しながら、挙句の果てに全く知らない家の法事にまで駆り出されてあなたのようにどうでもいいことを機関銃のように喋り捲る人の相手をさせられることの方がどのくらい大変か分かりません。』
これも極めて不適切かつ危険な発言には違いないので「今日はお忙しいところをありがとうございます。」「ええ、お蔭様で何とか元気にやっています。」「お変わりなくお元気そうで何よりです。」といった当たり障りのない言葉を交互に答えて後は笑ってごまかすと言う戦法に徹した。時々受け答えがちぐはぐになることはないわけでもなかったが、そういう時は笑って切り抜けた。
しかしこれも二、三人が限度で疲れてしまう。しかも相手はいろいろこっちのことを知っているんだろうけど僕は相手のことを何一つ知らないのだからその心労たるや想像を絶するものがあった。さすがに女土方が心配して僕の袖を引いて「あなた、ご親戚のことあまり知らないの。」と尋ねたくらいだからかなりおかしなことを言っていたのかも知れない。
「はい、全く知りません。今日が初対面です。」
こんなことを言ったら一体どんな顔をするだろう。僕はこの親族の波状攻撃で疲れ果てて佐山母が到着するとさっさと本堂に上がってしまった。さすがにここでは小さな声で挨拶を交わすくらいで機関銃のような言葉の掃射は受けなかった。女土方は僕の隣に座らせた。それがいいのか悪いのかは分からなかったが、女土方も何も言わずに素直に言われたところに腰を下ろした。
住職が入場して着席すると法事が始まった。読経が始まると間もなく焼香に行くように促された。僕は佐山母に続いて全く見も知らない父親という人物の位牌に向かって手を合わせた。僕の後には順番を弟君に譲ろうとして逆に先に済ませるよう促された女土方が続いた。縁も所縁もない二人に手を合わされて仏様は一体何と思っただろう。
自分の身内であれば思いを馳せるところもいろいろあるだろうが、縁も所縁もない対象でしかも外国語を聞くよりももっと意味が分からないお経を数十分も聞かされた後で本堂から解放された。不謹慎かも知れないがいい加減うんざりしてくるのはやむを得ないだろう。最近は法事の会場に椅子と経典を置く寺が増えたので足の方は救われるが、だからと言って退屈さは変わらなかった。
法事が終わると宴席へと場所を移すことになった。会場は寺から車で二十分ほどのところにある割烹料亭だったが、もちろん僕はその場所を知らなかった。普通は住職も会場へ来るのだが、他に法事があるということなので一言お礼に伺った。住職へのお礼が済むと慌てて車に駆け込んでカーナビで検索して目的地として登録した。誰かの車についていけばいいのだろうけど『先に行ってくれ』なんて言われたら目も当てられないから転ばぬ先の杖というつもりだった。
会場からはマイクロバスが迎えに来ていて佐山母以下大方のお客はそっちへ乗り込んでしまったので女土方と二人気楽にドライブのつもりでいたら老夫婦が車に向かって歩いて来た。何だか嫌な予感がして知らない振りをして車を出そうとしたら「あのご夫婦、手を振っているわよ。乗せて欲しいんじゃないの。」と女土方に止められてしまった。
僕は佐山母から車のキーを受け取ると庭に出た。庭の隅のカーポートには佐山父が使っていた車が停めてあった。あまり使っていないらしく車体には随分埃が積もっていた。エンジンがかかるかどうかちょっと心配だったが、寒冷地用で大容量のバッテリーを使っているせいかキーを回すとすぐにエンジンがかかった。
「車を洗ってガソリンを入れてくるわ。法事でお客さんの送り迎えに車がいるでしょう。」
僕は車に乗り込む前に女土方の方を見た。『一緒に行こう。』という意思表示のつもりだった。女土方はすぐに分かったようでさっさと助手席に乗り込んだ。
「あなた、車の運転は大丈夫なの。何時もは頼んでもしないくせに気をつけなさいよ、本当に。」
佐山母が叫んでいたのでちょっと脅かすつもりで急発進をするとかなり乱暴な運転で道路へと出て行った。ルームミラーには呆れた顔の佐山母が小さく写っていた。
「なかなかやるじゃない。でも女親と娘と言うのはどこでも幾つになっても同じなのねえ。」
女土方は僕と佐山母とのやり取りも僕の荒っぽい運転も余裕で面白がっていた。佐山家から少しばかり走ったところでスタンドを見つけてガソリンを満タンにしてから車を洗車機にかけた。元々ポリマー加工か何かをしてあったようで洗車が終わると車は見違えるように輝き出した。
戻る時も佐山母との会話で少し苛立っていたので車の運転が荒くなったが、佐山母一人くらいの相手をしてうんざりしているなんて自分の見通しの甘さを痛感させられるような出来事が待っているなどとは思いもしなかった。
佐山家に戻ると弟君の先導で会場のお寺に向かった。朝里川沿いにしばらく走ったところから少し奥に入った山裾にある静かな寺だった。法事なんていうのは大体お寺さんでお経を聞いてその後宴席を設けて食事をしてお開きと言うのが一般的だった。その宴席にしても車で来るものが多いので一時間か二時間程度も我慢していれば終わってしまう。大酒を飲んではめをはずすものもあまりいないし愚痴をこぼす者もいない静かな宴席のはずだった。
会場のお寺にはまだ誰も来ていなかった。僕は住職に挨拶をすると本堂の前で女土方と一緒に参列者が来るのを待っていた。僕たちから少し離れたところに弟君と許婚さんが立ってこちらを伺いながら何か話し合っていた。多分僕が、いや佐山芳恵がおかしくなったとでも言っているんだろう。確かにそう言われてもそれも仕方のないことなのだが。
「静かで良い所ね。」
女土方が独り言のように呟いた。
「こんなところでのんびりと暮らしたいわ。」
こんなところと言うが、冬になれば半端でないくらい寒いだろうし、何よりも短い間ならいいだろうが、東京になれた人間がこんなところにいたら刺激が少な過ぎて飽きてしまうに違いない。
「そうかな、たまに遊びに来るのならいいけど生活するとなれば大変だと思うけど。特に東京の便利さに慣れてしまった人には。」
「今はネットもあるし何処でも何でも手に入るじゃない。」
「そうしようと思えばそれはできるでしょうけどちょっと出かけたついでにと思っても何もないわよ。」
「特に何も要らないけどなあ。穏やかに生活できれば。それで十分だと思うけど。こんなところで一緒に暮らせるといいわね。」
「ここじゃあ目立って仕方ないわ。女の同居なんて東京だから出来るのかも知れない。」
僕たちはそんな取り留めのない話をしばらくしていたが、そのうちにポツリポツリと人が集まり始めた。大方が佐山芳恵の親と同世代の初老の男女だったが、中には僕じゃなくて佐山芳恵と同世代と思われる年恰好で小さな子供を連れた男女も混じっていた。
本堂の入り口で待ち構えて挨拶をするのだが、これがなかなか難物で簡単にはいかなかった。大体どれもこれも僕の姿を見ると小走りに駆け寄って来て「あらあ芳恵ちゃん、しばらくねえ。元気だった。女独り東京で生活するのは大変でしょう。元気でやっているの。誰かいい人は見つかった。お仕事大変でしょう。体壊したりしなかった。」なんてことを機関銃のように次から次へとまくし立てた。
『東京の女独りの生活よりも目が覚めたらいきなり見ず知らずの女の体になっていて全く違う境遇の中で生活しながら、挙句の果てに全く知らない家の法事にまで駆り出されてあなたのようにどうでもいいことを機関銃のように喋り捲る人の相手をさせられることの方がどのくらい大変か分かりません。』
これも極めて不適切かつ危険な発言には違いないので「今日はお忙しいところをありがとうございます。」「ええ、お蔭様で何とか元気にやっています。」「お変わりなくお元気そうで何よりです。」といった当たり障りのない言葉を交互に答えて後は笑ってごまかすと言う戦法に徹した。時々受け答えがちぐはぐになることはないわけでもなかったが、そういう時は笑って切り抜けた。
しかしこれも二、三人が限度で疲れてしまう。しかも相手はいろいろこっちのことを知っているんだろうけど僕は相手のことを何一つ知らないのだからその心労たるや想像を絶するものがあった。さすがに女土方が心配して僕の袖を引いて「あなた、ご親戚のことあまり知らないの。」と尋ねたくらいだからかなりおかしなことを言っていたのかも知れない。
「はい、全く知りません。今日が初対面です。」
こんなことを言ったら一体どんな顔をするだろう。僕はこの親族の波状攻撃で疲れ果てて佐山母が到着するとさっさと本堂に上がってしまった。さすがにここでは小さな声で挨拶を交わすくらいで機関銃のような言葉の掃射は受けなかった。女土方は僕の隣に座らせた。それがいいのか悪いのかは分からなかったが、女土方も何も言わずに素直に言われたところに腰を下ろした。
住職が入場して着席すると法事が始まった。読経が始まると間もなく焼香に行くように促された。僕は佐山母に続いて全く見も知らない父親という人物の位牌に向かって手を合わせた。僕の後には順番を弟君に譲ろうとして逆に先に済ませるよう促された女土方が続いた。縁も所縁もない二人に手を合わされて仏様は一体何と思っただろう。
自分の身内であれば思いを馳せるところもいろいろあるだろうが、縁も所縁もない対象でしかも外国語を聞くよりももっと意味が分からないお経を数十分も聞かされた後で本堂から解放された。不謹慎かも知れないがいい加減うんざりしてくるのはやむを得ないだろう。最近は法事の会場に椅子と経典を置く寺が増えたので足の方は救われるが、だからと言って退屈さは変わらなかった。
法事が終わると宴席へと場所を移すことになった。会場は寺から車で二十分ほどのところにある割烹料亭だったが、もちろん僕はその場所を知らなかった。普通は住職も会場へ来るのだが、他に法事があるということなので一言お礼に伺った。住職へのお礼が済むと慌てて車に駆け込んでカーナビで検索して目的地として登録した。誰かの車についていけばいいのだろうけど『先に行ってくれ』なんて言われたら目も当てられないから転ばぬ先の杖というつもりだった。
会場からはマイクロバスが迎えに来ていて佐山母以下大方のお客はそっちへ乗り込んでしまったので女土方と二人気楽にドライブのつもりでいたら老夫婦が車に向かって歩いて来た。何だか嫌な予感がして知らない振りをして車を出そうとしたら「あのご夫婦、手を振っているわよ。乗せて欲しいんじゃないの。」と女土方に止められてしまった。