しばらくするとまた携帯が鳴った。女土方が近くに来ていると言うので僕はまとめた荷物を持って外に出た。路地を歩いて広い通りに出ると女土方のスマートがハザードを点滅させて停まっていた。僕が近づいて行くと女土方も気がついたようで車から降りて僕の方に向かって歩いて来た。そして面と向き合うと両目から大きな涙をいくつもこぼした。

「ごめんなさい、迷惑をかけて。でもどうしても淋しくて我慢が出来なかったの。」

 僕は泣きじゃくる女土方の肩を抱いて車の方に導いた。そして女土方を助手席に座らせると自分は運転席に納まった。女土方の自宅までの道がよく分からなかったのでカーナビを立ち上げると住所を聞いてカーナビにデータを打ち込んでセットした。今は本当に便利になったものだ。カーナビのちょっと篭ったような案内の音声が聞こえると僕は車を発進させた。

 日曜の夜で車も少なかったこともあって女土方の家には十分ほどで到着した。車をカーポートに入れると僕たちは家の中に入った。女土方は消え入りそうな小さな声で「ごめんなさい。」とだけ言った。僕は

「いいのよ。あなたの気持ちはよく分かっているから。」とだけ答えた。

「あなたが私を心配してくれていることはよく分かってる。でも私と違ってあなたは普通の女性だから私から離れていなくなってしまうんじゃないかと思うと怖いのよ。それも仕方のないことだということは分かっているわ。そしたらまた私は一人で取り残されるの。それが怖いのよ。」

 普通でないことにかけては僕の方がはるかに上を行っているんじゃないかと思いはしたが、女土方の思いは痛いほどよく分かった。僕自身女土方よりもさらに過酷な運命に翻弄されている哀れな女、いや男かな、とにかく哀れな人間だったが、何度目が覚めたら全く見ず知らずの女に変わっていたなんて幾らなんでも誰も信じないだろう。

「大丈夫よ、私はあなたのそばにいるわ。それを信じるか信じないかはあなた次第よ。ねえ人間の出来ることには限度がある。自分に出来ることを一生懸命やってみて後は成り行きに任せる他はないわ。そうでしょう。」

 いくら考えても先は見えないし見えないことをあれこれ言っても始まらない。女土方よりもさらに男に拒否反応を示さざるを得ない僕にとっては女土方との出会いと結びつきはそうなるべくしてなった当然の帰結であり僕自身諸般の状況を考えるとこの関係に拠らざるを得ない状況も女土方とさして変わらなかった。まあ敢えて女土方と異なって救いになることと言えば僕の精神構造が男のままだったので先に対しての見積もりが大雑把なことくらいだろう。

「ごめんなさい。よく分かってる。迷惑をかけてごめんなさい。」

 女土方は何度も何度も謝ったが、別に謝ってもらう理由もないので女土方にもうそんなことを何度も謝るのはやめて休むようにと言った。

「そうね、明日は誰かに見られないように時間差で行かなくては。気の毒だけど早起きしよう。」

 女土方はそんなことを言ったが、僕自身は出勤の時に一緒にいるところを見られたからと言って別に困るわけでもないし、女土方には「誰かに何かを言われても放っておけばいい」と言い聞かせた。第一自宅が同じ方向なのだから一緒になっても不自然でもない。こういうところは男の僕の方がずっと腹が据わっているのかもしれない。あるいはただいい加減で図々しいだけなのかも知れない。

 僕は女土方に「休もう。」と言った。せめて休める時は穏やかに心と体を休めることが一番だというのが僕の信条の一つだった。女土方も黙って頷いた。

「どうぞ、先に休んでいて。私、シャワーを使ってくる。」

「待ってるわ、どうぞ。」

 僕は今のソファに腰を下ろした。女土方が浴室に入ると僕は着替えを取り出して着ているものを取り替えた。そして企画書を取り出して読み直しを始めた。それなりに力を注いだ企画なのでつまらないミスで味噌をつけたくはなかった。ところが読み始めるとついその気になって女土方がシャワーを使い終わったのに気がつかなかった。

「新しい企画なの。そういえばあなた、語学コースの新企画を提案して取り組んでいたみたいね。」

 いきなり後ろから声をかけられて体がすくんだ。

「あ、お帰り。」

 僕は泡食って答えた。女土方はしばらく僕の肩越しに企画書を覗き込んでいたが、そのうちに「ちょっと見せてね。」と言うと僕から企画書を取り上げた。そして恐ろしい速さで企画書を読み始めた。その目は引き締まって涼やかでいつもの自信を取り戻しているように見えた。そうして女土方は幾つか僕の提案修正してくれた。

 特にキャッチコピーについて僕は専門のコピーライターによる外注を考えていたが、女土方は僕のコピーで十分に面白いし、これで人を惹きつけられると主張した。その他にも単語の選定作業も部内で人をつけてもらってやる方がコストも下がるし、こちらのコースに応じてきめ細かな選定が出来て良いなどなかなかにくい助言を受けた。

「なかなかよく考えられた良い企画だと思うわ。あなたが言っているとおり楽しんで本当の外国語なんか身につけることは出来ないと思うわ。だから外国語の雰囲気を楽しむコースと本気で勉強するコースを分けたのは正解だと思うわ。

 概ねの方向はこれでいいと思うけど後はどんな教材やカリキュラム、そして講師を組み合わせていくかが問題よね。」

 あきれるくらいの速度で読み終えた女土方は顔を上げて僕を見た。

「企画が通ったらまたいろいろ考えてみるわ。その時は力になってね。さあそろそろ休もうか。」

 僕は企画書を封筒にしまいながら女土方を促した。女土方も黙って頷いて立ち上がった。お互いに思うところは全く違っているのだろうが、それなりに短いながらも穏やかな一夜を過ごした後、僕たちは出勤のために起き出した。

 女の朝は男以上に忙しいが、自分自身は男と思っている僕は簡単に出勤の準備を終えて居間で女土方を待っていると逆に女土方に呼ばれてこってりと化粧をされてしまった。あまり濃い化粧をすると後で手を加えて修正するのにとても困るのだが、まさかそれを言い出す訳にも行かず黙って化粧をされていた。

 男を愛せない女土方は女の姿になった僕を好きになり、女の体になったとは言っても正真正銘男の感覚と精神構造を持った僕は僕を女と信じて接近してきた女土方を好きになった。こうしてまさに同床異夢とも言うべき関係を歩みだした僕たちは慌しい一週間へと突入して行った。

 僕の企画書は上司の決裁を受けて企画部の審査に入った。その間に審査の際の細部の詰めやら次の段階に向けた準備など忙しさ、慌しさは拍車がかかったようだった。毎晩遅くになって本当に横になるためだけに自宅へ帰って翌朝また早朝に起き出して出勤した。そうしてあっという間に一週間が過ぎ、週末はまた女土方の家で過ごした。

 しかし週末も女土方に手伝ってもらって企画書の内容の修正やら審査対応の準備やら企画の修正や補足で大半の時間を費やした後、眠りに就く前のほんのわずかな時間をお互いの心の渇きを癒すために当てた。それは決して十分な時間とは言えなかったが、それでも僕も女土方もお互いに満足だった。