借りた車は本格的なスポーツカーではないので当然それなりの性能だが、それでも何となくそれらしく固められた足回りを使って山道を駆け抜けるのは爽快だった。最初の頃こそ自分の記憶している運転操作を他人の体で実行する微妙な違和感がまとわりついていたが、それもすぐに慣れてほとんど男の自分であった時と変わらない感覚で車を操ることが出来た。
途中若い男性の車に追いかけられたりもしたが、山坂帝王と言われた僕のこと、追い着かれるとじわじわ引き離し、これを繰り返して後追いを諦めさせたりした。こんな楽しい思いで久しぶりに憂さを晴らしていた僕にまた激動の一幕が待ち構えていようとは神ならぬ身の悲しさゆえ知る由もなかった。
ホテルに着くと表の駐車場に車を置いて小さなロビーに入った。レセプションで「お一人ですか。」と聞かれたが、やはり女性の一人旅は珍しいのか、それとも何か問題でも起こすと思ったのか、こちらが黙っていると手を止めて様子を覗っているようだった。
『女と言っても中身は男だが、それが一人で旅をして何か文句あるんかい。』
一言くらい凄んでやろうかとも思ったが、宿泊を断られても困るので例の沈黙の笑顔でこの場をあっさりと切り抜けて部屋へと上がった。
ベッドとテレビと小さなテーブルだけの飾り気のない簡素な部屋だったが、パステルカラーで統一された落ち着いたインテリアと良く手の行き届いた室内は心地よかった。着替えの入った小さなバッグをベッドに投げ出してパソコンをテーブルにセットするとグラスを取り出して買い込んだコーヒーを開けて注いだ。そうしてコーヒーを飲みながら例の英語コースの資料をめくってみた。資料を読み進んだり戻ったりしているうちに何となく形が見えてきた。
いっそのこと本当に英語を身に着けようという人たちのためのコースと英語をファッションのように楽しもうとするコースを分けてしまったらどうだろう。そうすれば思い切り楽しい英語のカリキュラムも組めるし努力や忍耐が必要でも使える英語が学べるようなカリキュラムも組むことができるようにもできる。我ながら良いアイデアだと思った。概ねの方向が決まれば後はそれに沿って動き出すだけだった。そこでちょっとロビーの喫煙室にでも行ってうまいコーヒーでも飲みながら一服でもしようかと思い、部屋を出てロビーに下りていった。
十人も入れば満員になってしまいそうな小さな喫茶室だったが、ここも洒落た椅子やテーブルが置かれくつろげそうな雰囲気だった。中に入ってカウンターのベルを鳴らすとフロントから人が来てコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーを持って窓際のテーブルに腰を下ろした。コーヒーを一口含んでからタバコに火をつけた。あまり良い習慣とはいえないが、この瞬間はなかなか良いものだった。ご本家も隠れた愛煙家のようだったのでご勘弁願おうなどと勝手に理屈をつけてタバコを吸っていると戯れながらホテルに向かって歩いてくる男女が目に入った。
ちょっと怪しげな雰囲気を漂わせているその男女を眺めていた僕は近づいてくるにしたがってはっきりとしてきた男の姿に思わず身を乗り出して目を瞠ってしまった。なんとその男は馬の骨氏ではないか。そして一緒に戯れている女性もうちの会社の総務の女性だった。ここにいるのがオリジナルの佐山芳恵なら相当な修羅場は避けられないだろうけど僕は馬の骨氏には何の感情もないし、同じ男としてこの程度の火遊びも理解できないことはない。まあ佐山芳恵とどっちが火遊びだったのかは分からないが。それにしてもあまりのじゃれ様にちょっと悪戯心が蠢いた。
鍵を受け取る間も馬の骨氏の腕にじゃれ付く様に体を動かしていた女を抱きかかえるように振り向いた馬の骨氏はそのまま女の方を向いて笑顔で会話をしながら僕が座っている喫茶室の前を通り過ぎると部屋へと上がって行った。僕は携帯電話を取り出すと馬の骨氏に送るべきメールの作成を始めた。
『素敵な○○ホテルで素敵な女性と仲むつまじくお過ごしになって楽しそう。私の分まで楽しんで。良い週末をね。ごゆっくり。』
この際文面は何でもいい。これで十分に趣旨は伝わると思い、そのまま送信した。しかし僕自身もこの手の危難は何度か体験して潜り抜けてきたが『天網恢恢祖にして漏らさず』とか『悪事千里を走る』とは何とも言い得て妙だと思う。
僕にしても入れ物はともかく中身は男なのだから時として男が感情を超えて女性に対して好奇心や興味を示すものだと言うことが分からない訳ではない。そしてそれが女の非難の的となることも痛いほど良く知っているが、こんな悪戯を考え付いたのは男である僕の思考を女の脳で処理しようとする際に何らかの計算違いか矛盾でも生じたせいなのかもしれない。
しばらくすると馬の骨氏が慌てた様子でロビーに下りて来てフロントで何やら話し込んでいた。きっと僕の、いや佐山芳恵のことを聞いているのだろう。僕は喫茶室の一番奥にある鉢植えの陰に席を移動した。中に入って来て姿を見られても別にぼくが何か悪いことをしているわけではないのだからかまわないが、こんな場合謎は謎として存在し続けた方が効果はより高くなるものだ。
そのうちに総務の女も降りて来てフロントの前で馬の骨氏と何やら話し始めた。馬の骨氏としては事実を告げるわけにも行かないだろうし自身の困惑とは裏腹に総務の女の前では平静を取り繕わなくてはならないという二重苦を背負うことになったわけだ。ああ気の毒に。
二人はしばらくして手を取り合って部屋へと戻って行ったが、馬の骨氏の後姿には困惑と動揺がにじみ出ていた。男の女に対する好奇心には同感ではあるが、そこから生じる責任は自らが負うべきものであることは明らかである。馬の骨氏には男としての責任をしっかりと自覚していただきたい。
途中若い男性の車に追いかけられたりもしたが、山坂帝王と言われた僕のこと、追い着かれるとじわじわ引き離し、これを繰り返して後追いを諦めさせたりした。こんな楽しい思いで久しぶりに憂さを晴らしていた僕にまた激動の一幕が待ち構えていようとは神ならぬ身の悲しさゆえ知る由もなかった。
ホテルに着くと表の駐車場に車を置いて小さなロビーに入った。レセプションで「お一人ですか。」と聞かれたが、やはり女性の一人旅は珍しいのか、それとも何か問題でも起こすと思ったのか、こちらが黙っていると手を止めて様子を覗っているようだった。
『女と言っても中身は男だが、それが一人で旅をして何か文句あるんかい。』
一言くらい凄んでやろうかとも思ったが、宿泊を断られても困るので例の沈黙の笑顔でこの場をあっさりと切り抜けて部屋へと上がった。
ベッドとテレビと小さなテーブルだけの飾り気のない簡素な部屋だったが、パステルカラーで統一された落ち着いたインテリアと良く手の行き届いた室内は心地よかった。着替えの入った小さなバッグをベッドに投げ出してパソコンをテーブルにセットするとグラスを取り出して買い込んだコーヒーを開けて注いだ。そうしてコーヒーを飲みながら例の英語コースの資料をめくってみた。資料を読み進んだり戻ったりしているうちに何となく形が見えてきた。
いっそのこと本当に英語を身に着けようという人たちのためのコースと英語をファッションのように楽しもうとするコースを分けてしまったらどうだろう。そうすれば思い切り楽しい英語のカリキュラムも組めるし努力や忍耐が必要でも使える英語が学べるようなカリキュラムも組むことができるようにもできる。我ながら良いアイデアだと思った。概ねの方向が決まれば後はそれに沿って動き出すだけだった。そこでちょっとロビーの喫煙室にでも行ってうまいコーヒーでも飲みながら一服でもしようかと思い、部屋を出てロビーに下りていった。
十人も入れば満員になってしまいそうな小さな喫茶室だったが、ここも洒落た椅子やテーブルが置かれくつろげそうな雰囲気だった。中に入ってカウンターのベルを鳴らすとフロントから人が来てコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーを持って窓際のテーブルに腰を下ろした。コーヒーを一口含んでからタバコに火をつけた。あまり良い習慣とはいえないが、この瞬間はなかなか良いものだった。ご本家も隠れた愛煙家のようだったのでご勘弁願おうなどと勝手に理屈をつけてタバコを吸っていると戯れながらホテルに向かって歩いてくる男女が目に入った。
ちょっと怪しげな雰囲気を漂わせているその男女を眺めていた僕は近づいてくるにしたがってはっきりとしてきた男の姿に思わず身を乗り出して目を瞠ってしまった。なんとその男は馬の骨氏ではないか。そして一緒に戯れている女性もうちの会社の総務の女性だった。ここにいるのがオリジナルの佐山芳恵なら相当な修羅場は避けられないだろうけど僕は馬の骨氏には何の感情もないし、同じ男としてこの程度の火遊びも理解できないことはない。まあ佐山芳恵とどっちが火遊びだったのかは分からないが。それにしてもあまりのじゃれ様にちょっと悪戯心が蠢いた。
鍵を受け取る間も馬の骨氏の腕にじゃれ付く様に体を動かしていた女を抱きかかえるように振り向いた馬の骨氏はそのまま女の方を向いて笑顔で会話をしながら僕が座っている喫茶室の前を通り過ぎると部屋へと上がって行った。僕は携帯電話を取り出すと馬の骨氏に送るべきメールの作成を始めた。
『素敵な○○ホテルで素敵な女性と仲むつまじくお過ごしになって楽しそう。私の分まで楽しんで。良い週末をね。ごゆっくり。』
この際文面は何でもいい。これで十分に趣旨は伝わると思い、そのまま送信した。しかし僕自身もこの手の危難は何度か体験して潜り抜けてきたが『天網恢恢祖にして漏らさず』とか『悪事千里を走る』とは何とも言い得て妙だと思う。
僕にしても入れ物はともかく中身は男なのだから時として男が感情を超えて女性に対して好奇心や興味を示すものだと言うことが分からない訳ではない。そしてそれが女の非難の的となることも痛いほど良く知っているが、こんな悪戯を考え付いたのは男である僕の思考を女の脳で処理しようとする際に何らかの計算違いか矛盾でも生じたせいなのかもしれない。
しばらくすると馬の骨氏が慌てた様子でロビーに下りて来てフロントで何やら話し込んでいた。きっと僕の、いや佐山芳恵のことを聞いているのだろう。僕は喫茶室の一番奥にある鉢植えの陰に席を移動した。中に入って来て姿を見られても別にぼくが何か悪いことをしているわけではないのだからかまわないが、こんな場合謎は謎として存在し続けた方が効果はより高くなるものだ。
そのうちに総務の女も降りて来てフロントの前で馬の骨氏と何やら話し始めた。馬の骨氏としては事実を告げるわけにも行かないだろうし自身の困惑とは裏腹に総務の女の前では平静を取り繕わなくてはならないという二重苦を背負うことになったわけだ。ああ気の毒に。
二人はしばらくして手を取り合って部屋へと戻って行ったが、馬の骨氏の後姿には困惑と動揺がにじみ出ていた。男の女に対する好奇心には同感ではあるが、そこから生じる責任は自らが負うべきものであることは明らかである。馬の骨氏には男としての責任をしっかりと自覚していただきたい。