何より僕にとって朗報だったのは仕事にかこつけて佐山芳恵の恋人だった馬の骨氏のお誘いを断る口実が出来たことだった。車内での馬の骨氏の評判は男性女性とも概ね良好だったし僕に対する接し方も紳士然としてどんなに袖にしても逆上することもなく僕を見放してくれることもなかったが、たとえどんなに皆様の評判が良かろうと紳士然とした態度で接してくれようと健全な男として健やかに育ってきた僕としては馬の骨氏の好意を受け入れることはできなかった。

 二週間目に入って新しい催しを織り込む段になって僕ははたと考え込んでしまった。旅行だの映画だの食事だのミニ実習だのとアイデアは次から次へと出てくるのだが、僕には具体的にそういった企画物のプランを作るにはどうしたらいいのかとか費用の見積もり概算とかそういったことには全く知識がなかった。周りのものにも聞いてはみたが、誰も当て推量の範囲を越えて知恵を貸してくれる者はいなかった。旅行社が発行しているパンフなどを読み漁っても見たが、これも似て非なる企画が多くて参考程度にしかならなかった。困り果てて頭をかかえていた時に馬の骨氏が部屋に顔を出した。

「オプションの企画で苦労しているらしいけど、知り合いにフリーのツアコンやっているやつがいるから紹介しようか。通訳もやっているから色々参考になるかもしれない。」

 馬の骨氏はそれだけを言って部屋を出て行った。そしてしばらくするとまた部屋に入って来た。馬の骨氏は僕に座っているイスから少しずれろと手で合図すると図々しくもその空いたスペースに腰をかけた。

「今晩なら時間が空いているそうだ。僕も一緒に行ければいいんだけどどうしてもはずせない用事があるがどうする。一人で行くか。ちょっと変わった男だけど付き合ってみれば悪いやつじゃない。」

 馬の骨氏はいとも簡単にそう言った。ちょっとひっかかるものもあったが僕としては企画を進めるためにはえり好みをしているわけにもいかなかった。それに馬の骨氏も冷たくはされていても自分の恋人と自認している僕をおかしな男のところには遣らないだろうと軽く判断してそのツアコン氏との面会を依頼した。

 それから夕方まで僕は持ち込む資料の選別と質問事項の整理に追われた。そして資料を大きなバッグに詰め込むと待ち合わせの時間に合わせて会社を飛び出して指定されたホテルのバーへと急いだ。
途中道路が混んで時間に少し遅れてタクシーはホテルに滑り込んだ。僕はロビーを駆け抜けてエレベーターに飛び乗るとほっと一息ついた。

『どうしてホテルのバーなんだろう。初対面の女との待ち合わせにはあまり相応しくないように思うが。』

 ちょっと変に思ったが、馬の骨氏がアレンジしたのだからと思い直してバーに入って行った。

「あの、白石さんと待ち合わせなんですが。」

 教えられたとおりに係の男の人に言うとその男の人は笑みを浮かべて「さきほどからお待ちです。」と答えて中年の男性がひとりで座っている窓際のテーブルに案内してくれた。

「すみません。遅くなりました。」

 僕が精一杯しおらしくしてお詫びの言葉を口にすると男は顔を上げた。僕はその四十代の半ばくらいの男の顔に映画のようにいきなりリームパイでも投げつけてやったらどんな顔をするだろうと考えてしまった。そのくらい男はつんと澄ました顔をしていた。僕がそんなことを考えていることなんかまるで気にもかけていない様子で男はウエイターにメニューを持ってくるようにと目で合図をした。

「かしこまりました。」

 ウエイターはすぐに奥へと下がって行った。

「かけなさいよ。」

 男は僕に向かってそう言った。

 『言われなくてもかけるよ。一応あんたに遠慮を示していただけだよ。』

 心の中でそう思いながら「失礼します。」と謙って椅子に腰を下ろした。男はウエイターが持って来たメニューを受け取ると僕に向かって差し出した。

「あいつから少し息抜きをさせてやってくれと頼まれているんだ。」

 馬の骨氏が何か余計なことを言ったようだった。僕にしてみれば男なんかと酒なんか飲んでも面白くもないので必要なことだけを聞いてさっさと帰りたかったのだが、どうもそうはいかない様だった。大体男だった時の僕はそこそこ人並みには酒は飲めたが、今間借りしているこの体がどの程度アルコールに耐性があるのか見当もつかなかったから無闇に飲んで目が覚めたらさらにややこしい状況に陥ってなんてことになっては困るので取り敢えずビールなどを頼んで様子を見ることにした。

 男はテーブルの上のグラスを挟むように目の高さまで持ち上げると何度かグラスを斜めに傾けて中の液体を愛でる様に眺めてからグラスに口をつけて一口飲み込むとまた顔の前でグラスを軽く振って氷がグラスの中を踊る音を楽しむような仕草をした。

 しかしどうして男という生物は女の前ではこうも手続きを踏まないと酒の一口も飲むことが出来ないのだろう。自分としても覚えのないことではなかったが、ここまではしたことがないことは敢えて申し添えたい。

「英語の履修コースのプログラムということだけどどんなことを考えているのか聞きたいね。」
相変わらずグラスの中の氷をくるくる回しながら男が言った。氷はからからと乾いた音を立てながらグラスの中で踊っていた。

 『ハツカネズミの車回しじゃあるまいし、いい大人がそんなにからから音を立てるな。』

 僕は心の中でそうしてやり込めておいてから何時かの会議で報告した内容をかいつまんで説明した。

「なるほど面白いアイデアだな。言葉を習うことと商売が結びつくとあれこれ選択肢が増えていくことは仕方のないことだけど基本的に言葉を習うことにビジネスだの貿易だの商業なんていう修飾語が付くこと自体おかしいとは思わないか。

 言葉を使うということは要はどれだけの数の単語の意味や使い方を正確に理解し、その言葉の発音を正確に発音し、聞き分けて、一定の法則に従って並べることが出来るかということに尽きるのではないかな。

 単語を覚えるということは語学の学習の中でもっとも忍耐の必要なことだけれどこれを経ずには語学の学習はないのではないかな。世間には掃いて捨てるほど英会話の学校があるけどあれだけの数の英会話スクールがあっても結局ろくに英語が話せる人間がいないということはその辛くて忍耐が必要だけどどうしても避けて通れない作業を単に商売には具合が悪いからと言って迂回しているからじゃないのか。
週に二、三回、二時間ばかり外国人と英語をしゃべって英語が使えるようになれば誰も苦労はしないさ。そう思わないか。

 いくら商売だと言っても地道に単語を覚える作業をパスしてしまっては何時まで経っても語学は上達しないさ。要はどうしてその忍耐の必要な作業をやり遂げるかと言うところに君たちプロの知恵が必要なんだろう。その辺をどう考えてるか聞きたいな。」

 気取ったからから男はその風体に似合わず至極当然のことを口にした。からから男が口にしたことは僕自身も常々考えていたことだった。ただ時間の限られたプログラムの中でそれをやるということになるとどうも単語の習得は個人の努力に期待するしかなかった。

「私もそのとおりだと思います。確かに営業と言うことを考えると単語の習得は地味で単調なのであまり前面には出せないのですが、それが語学能力の向上にとって足枷となっていることは事実だと思います。でも私たちとしては単語の習得と言った基礎的な学習は受講者の自主的な努力に期待する以外にはないのも事実です。」

「あなたはどんな方法で語彙を増やしたのかな。必ずどこかで何らかの方法で語彙の習得を行っているはずなんだが。」

 話が盛り上がりかけたところにウエイターが注文したビールとハムの盛り合わせを運んで来た。

「お、そうだ、最初から堅い話になってしまった。さあ喉を湿してゆっくり話そう。どんどんやってくれ。そうだ、僕にはロックを、ダブルで。」

 からから男はグラスを顔の前でからから揺すって料理を運んで来たウエイターにウイスキーを注文した。

『何でもかんでもよくからからグラスを振る男だ。お前の言語はグラスの氷を振る音かい。』

 そんな悪態でもつきたくなるほどからから男はグラスをからから良く振り回した。

「数年間は何処へでも辞書を持ち歩いては分からない単語を端から調べました。英英辞典を使うようになるとそれまでの英和とは違って目からうろこが落ちたように英語という言葉が持っている感覚がよく分かり、それが面白くて年に何冊も辞書を使い破るほど単語を調べまくりました。

 でもそれをするには語法とかそういうことにでも興味を持たないとなかなか難しいと思います。でもそのくらい興味を持っている人ならきっと何も言われなくても自分でやるでしょうし。誰もが楽しく単語を覚えると言うことは難しいと思います。

 このコースでは最小限これだけの単語は完全に覚えてくださいと示してあげるとか私たちとして出来るとしてもその程度なのかなと思いますけど。」

「うーん。そうかなあ。」

 からから男はまたからから氷の音を響かせてグラスを振り回した。

「やはり読む、書く、聞く、なんにしても英語に出来るだけ触れることなんだろうな。まあ何とか出来るだけ楽しく出来る方法を考えてみよう。」

 さすがのからから男もグラスを振り回すほどには簡単にはこの問題に対する解決法が見当たらなかったようで問題は先送りされてしまった。外国語を覚えるにはその国の女と同棲すればいいと言うけれど、それにしても日常生活程度の言葉は覚えられても政治だ、経済だ、科学だ、芸術だと広範囲にわたって必要にして十分な語彙を身につけるにはただ単に異性の力だけではどうも足りないように思えた。それからしばらくからから男と語学議論を交わした後で僕は礼を言うと立ち上がろうとした。

「あいつからガス抜きをしてやってくれと頼まれたんだけど堅い話になってしまった。時間があれば部屋に寄ってもらって飲み直してもいいのだけど。」

 からから男のやんわりした誘いを丁重に断って席を立ったが、特に引き止めるようなことはされなかった。あるいは単に僕の顔を立てるためのお世辞だったのかも知れない。