会社に入ると昨日下見をしていたように教育企画課に入って自分の机に座った。お茶くみとかそんなことがあるのではないかと心配していたが、みんな自分で好き勝手に飲んでいるようなので一安心して放っておいた。

午前中はファイルを見ながら職場の様子を窺って過ごした。特に難しいことも言われずに昼になった。午後からは見積り査定の打ち合わせがあるが、半日くらいファイルを読んだからといってどうなるものでもなく当って砕けろという心境だった。ただ僕にとって救いだったのは見積り提出は大方終っていて後は会計方の査定が主な議題なことだった。

僕は昼休みになると昼食の誘いも無碍に断わってそそくさと部屋を出た。とにかく他人から離れて独りになりたかった。会社から少し離れたコーヒーバーに入ってサンドイッチと冷たいコーヒーを頼むと煙草に火をつけてほっと一息ついた。今までの翻訳で食っていけばいいのだから会社なんか辞めてしまいたかったが、この体の持ち主である佐山芳恵のことを考えるとそうそう簡単に辞めてしまうわけにも行かないような気もした。それともこのことを公にして一躍時の人になって本でも書こうかとも思ったが、そうした場合、どう考えても精神病院に強制収容されてしまうのが関の山なので思い止まることにした。そんなことを考えているうちに時間は容赦なく過ぎてしまって会社に戻らなければいけない時刻になってしまった。

査定会議まで少し時間があったので資料を見直した。女性らしくきめ細かなプランだったが、僕から見れば無駄が多いように感じた。教材にしても使うかどうかも分からないものまでリストアップしていたりリスニングの時間も講師を配置していたりやたらと映画の鑑賞などの課外授業が多かったり、フリートークの時間に講師を複数配置していたり至れり尽せりといえばそれまでだが勉強なんか楽しくやれるならそれに越したことはないが、どの道忍耐と努力なのだから自分がやる気にならなければそれまでだという僕の主義から言えば客寄せの企画が多すぎるように思えた。そこで査定会議というのがどんなものか僕は知らなかったが、機会があればそんなところを僕流に訂正していこうかと思った。

 時間の少し前にチーフプランナーに呼ばれた。このおじさんはプランについて概ね良好と言ってから『どんな査定が出るか分からないが大方この線で行けると思う。』と一言付け加えた。僕はさっきの自分の考えを簡単に説明してもっとプランをシェイプアップすることが出来ると付け加えた。おじさんは怪訝な顔をして「先週これが最良と言ったが。」と聞き返した。

「常により良いものを。そうじゃありませんか。」

 僕はあれこれ説明するのが面倒だったので、「時間ですよ。」と言ってチーフおじさんを促した。おじさんも黙って頷くと自分のデスクに戻って資料をまとめ始めた。僕も用意しておいた資料を持っておじさんと一緒に会議室に向かった。

 重役も出席するというのでチーフおじさんはかなり緊張している様子だったが、僕にはそんなことは関係なかった。気楽に部屋に入った僕は中にいる出席者を見て腰が砕けたかと思うほど驚いた。そこにあの馬の骨氏が座っていたのだ。

『何でここにあいつが。』

 僕は大声でそう叫びたかった。考えてみれば恋愛の相手が同じ職場というのは珍しいことではなかったのだが、今までそんなことは考えもしなかった。馬の骨氏は動揺の極にある僕の方をちらりと見たが特に感情を表すこともなくまた書類に目を落とし始めた。会議は査定方からの意見発表で始まった。その査定の責任者が馬の骨氏だった。査定方の言っていることは概ね僕が考えたことと同じような内容だった。三十分ほどで査定方の査定結果が申し渡されると最後に査定責任者の馬の骨氏が一言付け加えた。

「概ねよく考えられた企画と思いますが、当方の意見のようにコスト面に関して再考の余地があると考えます。企画方のお考えはいかがですか。」

 本来はここでチーフおじさんが企画方を代表して意見を言うらしいが、そんなことは何も知らない僕は立ち上がって自分の考えたことを言ってしまった。

「査定方の言われるとおり企画はコスト面を中心に再考の余地があります。基本的にそれぞれ顧客の要求が違いますが、言葉は同じ英語です。内容によって基本的なコースをいくつか設定してそれ以外はオプションという形を取れば顧客の選択肢の幅も広がりますし、こちらも価格設定が楽になります。
また外国語を学習するという行為は目的が何であれ基本的なことはみな一緒ですから改定の際にもオプションを中心に見直せば良いので業務も効率的です。」

「それはなかなか名案だな。」

 それまでじっと黙っていた重役のじいさんが口を開いた。

「早急に今の発言に従って見直し作業を進めてみてもらいたい。」

 じいさんは言い終わると目を瞑って腕を組んだ。

「なかなか良い案なので早急に考えたいと思います。」

 チーフのおじさんは立ち上がって一言言っただけでまた座り込んだ。じいさんたち、ほめてくれたのは良いがそれから先の仕事はみんな僕がやることになってしまった。しかしそれも言い出したのだから仕方ないと割り切って早速準備を始めた。作業の場所は物置のような小部屋の窓際を仕切った小さなスペースがあてがわれた。そこにアシスタントの若い女の子と二人で陣取った。

 ほとんど誰も入って来ない密室のようなところに若い女性と押し込められたのだから本来なら幸せの極みなのかも知れないが、何の因果かその喜びの対象と同じ構造の体を持つことになってしまった今の僕には何の意味もないことだった。与えられた時間は一ヶ月、それで企画のアウトラインを示すことになった。一ヶ月というとけっこう時間がありそうでいてタイムスケジュールを組んでみると決して十分とはいえない時間だった。早速今までのプランの見直しから始めることにした。全く新しいものを考え出さなくても語学学習の基本は変わらないのだから基本的な部分はそれをそのまま使って飾りとしてフルオプションを付け足せばいいというのが僕の考え方だった。

 僕自身にしてみれば語学というものは教室で机に向かって勉強するものではなく楽しみながら継続して勉強しようというのが持論だったから男として考えるのなら『金髪美人と楽しく遊んで英語をマスターしよう。』なんていうのも売りの一つかとも考えたが、そんなことを言い出したら殴られそうなのでそれぞれのコースに短期留学あるいはホームステイ、ディナー、映画見て歩きなんてものをくっ付けて若い女性を取り込もうと考えていた。

 作業を始めるとあっという間に一週間が過ぎた。職場の同僚の皆様と顔を合わせることもない生活は僕にとっては返って気楽だったが、職場では僕の、いや佐山芳恵について変なうわさが流れ始めていた。一番多かったのは佐山芳恵が男のようになってしまったという極めて妥当かつ的を得たうわさだった。これには何とも反論のしようもなかったが、実際にそう言っている女性たちは更衣室などで僕のあるいは佐山芳恵の正真正銘疑いのない女性の体を目撃しているのでそれ以上に発展はしなかった。中には宇宙人が取り付いたなどとかなり現実に近い意見を述べる者もいたが、当然の帰結としてこのような的を得た意見は一笑に付されて省みる者もいなかった。

 厄介だったのは付き合いが悪くなったという元の取り巻きあたりから出たうわさだったが、これもなかなか的を得ている意見だった。普通のお勤め嬢だった佐山芳恵がこともあろうに群れるのが大嫌いな反社会的中年男に様変わりしたのだからそれも当然のことだった。しかしこれもプロジェクトで忙しいという錦の御旗にも匹敵する言い訳が救ってくれた。それ以外にも服装が変わったとか化粧が変わったとかあるいは下手になって見られたものじゃないなんてこれもまた鋭い観察に基づく客観的な意見もあったが、これも仕事が忙しくて気が回らないとかアレルギーで普通の化粧が出来ないとか適当なことを言っては誤魔化していた。何と言っても現代の最新科学を総動員したとしても佐山芳恵の人格が別人へと全く変わってしまったなんてことを立証することは不可能なのだから僕はその点では安心して適当な出まかせを言い捲くることが出来た。