部屋に帰って夕食の支度をしていると馬の骨氏から電話があった。細々としたことを聞かれたが、あまり深入りしないで適当に答えて電話を切った。馬の骨氏は大いに不満なようだったが、僕も分かりもしないことをあれこれ聞かれるのは大いに不満だったのであいこだろう。

 まして馬の骨氏を避けているんじゃないかなんてそんなことを聞かなくても分かるだろう。避けているに決まっているじゃないか。その理由はいとも簡単だ。それは僕が男だからだよ。大体避けていると思ったら距離をおいて付き合えば良いじゃないか。もっとも距離をおいても僕は今の状態で付き合うのは御免被りたかったが。
 食事を終えてやっと一息吐いた。今日も何ともセンセーショナルな一日だった。まだまだ男の生活が抜けなかった。それは当然のことで止むを得ないのだろうが、外ではトイレに行けば男子用のトイレに入りそうになってしまうことはしばしばだったし、女性用に入っても何だか悪いことをしているようで落ち着かない気分だった。

 ちょっと気を抜いているとやることが男性のそれになってしまう。まだまだ不慣れなことばかりで自分の感覚としてはこの体にも生活にも当分慣れそうにもなかった。そんなお気楽なことを考えていたらまた馬の骨氏から電話が入った。体の具合はどうだとか良くならなかったら医者を紹介するとか今度の週末は会えるかとか散々しゃべられていい加減うんざりした。どんな医者でも今の僕を治せる医者がいたら是非紹介してもらいたいもんだ。

「君のことが好きだから本当に心配なんだ。」

 何度もそんな世迷言を言っていたが、それならそっとしておいて貰いたい。そんなことを言われるだけでも計り知れないほどの負担なのだから。第一男が男に好きだなんて言われても嬉しいわけがないだろう。
 
 やっとのことで電話拷問から逃れたが、どうも来週は何が何でもここにやって来て一緒に過ごすつもりらしい。そっちがその気ならこっちはホテルにでも逃亡しなければいけないじゃないか。本当に愛しているのならそっとしておいてくれと言われたらそうしてやるのが男じゃないのかなどと心の中で叫んでも相手に届くはずもなくまた憂鬱の陰が顔を覗かせて来た。何だかストーカーに付け回される被害者の気持ちがよく分かるような気持ちがした。

 何とか気を取り直して食事を済ますと小さなソファに足を投げ出して横になった。まだなじみのない白い剥き出しの女の足が視界一杯に飛び込んで来た。その足を見ながら一体どうしてこんなことになってしまったのかと考えると情けなくなってしまった。こうなってしまった理由を考えても分かるはずもないし考えれば考えるほど気が滅入ってくるので陰気を頭から振り払って立ち上がった。そうして立ち上がっても何もすることが思いつかずにまた腰を下ろしたり立ち上がったり、そんなことを何度も繰り返してから帰りがけに化粧品を買ってきたのを思い出して化粧の練習でもしてみようと思い立った。

 決して安くはなかった化粧品を取り出すとドレッサーの前に座り込んで鏡に写った女の顔をまじまじと見つめた。その時思いついたことがあって私は小物入れの引き出しを引っ掻き回し始めた。そしてその中から何枚かの写真を取り出して眺め始めた。もちろんそれは中身が入れ替わる前の佐山芳恵という女の写真だった。その中にはあの馬の骨氏と仲睦まじく写っているものもあったが、こんなに仲が良かった女がある日突然何の理由もなく反旗を翻し始めたら馬の骨氏でなくともやっぱり慌てるだろうとほんの少しばかり同情してやった。

 そうして探し出した佐山芳恵の写真を眺めていたが、思ったとおり元々佐山芳恵は化粧の濃いほうの女ではなく概ね素顔と言ってもいいくらいの薄化粧だったことに安心した。勇気がついたところで女の眉の形やルージュの引き方が良く確認できる写真を鏡の前において穴が開くほど眺めてから生まれて初めての化粧を開始した。さっきデパートで教えてもらったとおりファンデーションを薄く顔に塗りたくって超小型草刈機のようなもので眉の形を整えた。その上から色鉛筆のようなもので眉を書いてルージュを引いた。最後に唇を強く結んでルージュを広げてから鏡を見入った。どうも顔がべたべたとする感じは相変わらず耐え難かったが、そこにはまあまあ普通に見られる女の顔が写っていた。

「ああ、けっこういけるじゃん。」

 嬉しくなった僕は思わずちょっとばかり蓮っ葉な言葉を口にしてしまった。それから本物の女のように右を向いたり左を向いたりして自分の顔だか何だか訳が分からない女の顔を鏡に写して悦に入ってしまった。化粧をすればそれなりに女はきれいになることは経験則から知っていたけれど、それが自分の顔で起こると何だか嬉しくなってしまった。気分が良くなったところで風呂に入ってしまおうと思い立ち、さっそく立ち上がると風呂場に行って浴槽にお湯を入れ始めた。そうしておいて衣服を脱ぎ始めようとした時はたと気がついてドアロックとチェーン錠を確認しに行った。裸の時や風呂に入っている時に馬の骨氏なんかに部屋に入って来られたらそれこそ『万事休す。』だった。

 鍵がしっかりとかかっていることを確認してから服を脱ぐと洗濯機に放り込んだ。もちろん無闇と紐の多い女の下着はネットに入れた。一人暮らしの長い僕はそういうことにはぬかりはなかった。風呂に入って洗濯物を片付け終わった頃にはもう十時を過ぎていた。買っておいた冷たいコーヒーを飲みながら明日から始まるだろう壮絶な日々に思いを馳せていた。

 翌朝はずい分早起きをして支度を整えると会社に出かけた。昨夜練習した甲斐があって化粧もそれなりに何とかなっているだろうと出来るだけそう思いたかった。駅に着くと不思議なことに気がついた。ホームのある場所に女性が寄り集まっていた。どうしたことかと思って眺めていると電車が入って来て思い出した。痴漢被害防止のために女性専用車両が指定されていたのだった。

 僕自身はこの女性専用車両というものにはあまり良い印象は持っていなかった。第一女性専用は差別ではなく男性専用は差別とかそういうアメリカ的な考え方に乗ってキンキンものを言うことも好きではなかったし、またこんなことをしなければいけないような民度の低さにもあきれ返っていた。本当にそんなに痴漢被害があるのかも疑わしいと思っていた。女性の側の自意識過剰もあるのではないかと思っていたが、痴漢の裁判で無罪を勝ち取った男性が盗撮で逮捕されたりほとんど途切れることがないくらいに掲示される痴漢記事を見ていると何だか男という生き物の業の深さに嘆かわしさを禁じ得なかった。そんなことをつらつらと思いながら女性専用ではない電車に乗り込んだ。

 確かに車内は普段よりも女性は少ないようだったが、そうかといって全く男だけというわけでもなかった。痴漢が出たら張り飛ばしてやろうと思っていたが、大柄な体のせいなのかもう狙われるような年齢ではないためか、僕の体に触れようとする男はいなかった。もしかしたら全身から発する怒りのオーラに恐れをなしたのかもしれなかった。

 会社に近づくにつれて会ったこともない男女から「おはよう。」などと声をかけられるようになった。適当に挨拶を返していたが、至極当然のこととは言え誰が誰なのか全く分からなかった。僕の様子がおかしいと思う者も少なくはなかっただろうが、おかしいおかしいと嘆きながらここ数日時を過ごしていた僕にとっては何ということもあるものか。