こうして女の体の取扱いに悪戦苦闘しながら女性としての第一日が終ろうとしていた。ほとんど精も根も尽き果ててベッドに倒れこむように横になった僕は馬の骨氏に連絡を入れていないことを思い出した。馬の骨氏の名誉のために一応断わっておけば彼は決して悪い男ではないのだと思う。何よりも悲劇だったのは彼を優しく迎えてくれるはずの恋人がどうしたことか全く別の、しかもご丁寧なことに向こうにしてみればそれこそ何処の馬の骨とも知れない人格と入れ替わってしまっていたことだった。そしてそれは僕のとっても佐山芳恵という女性にとっても同様に例え様のない悲劇だった。

 そしてもっと考えてみれば三者三様に悲劇なのだし痛み分けのようなもので、僕にしてもたとえ相手がどんなに良い男だったとしても男などにかまって愛想を振り撒いている余裕もそして勿論そうした嗜好もなかったので、その結果がどうであれ馬の骨氏については今後も黙殺を続けることにした。横になると今日一日の疲れがそれこそ怒涛のように押し寄せてきて僕はすぐに眠りに引き込まれそうになった。そんな朦朧とした意識の中で僕は昨日までの自分について考えた。

『昨日までの僕は一体今何所で何をしているのだろう。僕は僕のまま普通に生活しているのだろうか。それとも誰か他の人格が乗り移って今の僕のように悪戦苦闘しているのだろうか。』

 そんなことを考え続けたが、昨日まで僕がどんな生活をしていたのかそのことは鮮明に思い出すことは出来たが、僕が一体何物で何所に住んでいるのか、そんな具体的なことは何一つ思い出せないのがとても悲しかった。そして明日の朝目覚めた時には本来あるべき姿の僕に戻っていることを切に願って驚愕と衝撃の第一日を終えた。
 
 翌朝眠りから覚めると何よりもまず自分の体を点検してみたが、やはり元のまま、いや変わってしまった体のままだった。この世に存在するかもしれない神仏すべてに祈ってみてもダメな時はダメなんだろうと当たり前のようなことを考えて起き上がると昨日買って来たコーヒーをコップに注いで煙草に火を点けた。小さなソファの上に胡座をかいて煙草を吹かすのはどうも女性として決してあるべき姿とは思えなかったが、人に見せるわけでもないしご本人も多少は煙を楽しんでいたようなので勘弁してもらうことにした。

『今日は何をすればいいんだろう。泡を食って闇雲に動き回っても良い結果も出るはずもないし、医者などに行ってみても元の自分の氏素性も分からずに下手なことを言えばそれこそ精神病患者扱いでもされて隔離病室に閉じ込められるのが関の山だろう。当分はこのまま生きていく以外にはなさそうだ。そうするとまずは経済的な基盤である勤め先の確認にでも行って見るか。そのついでにデパートの化粧品売り場でも行って化粧品を買って化粧の仕方を教えてもらって覚えてくるか。』

 そんなことを考えながらこれも昨日買ってきたパンを千切って口に放り込んだ。しかし胃袋の容量も佐山芳恵になっているらしく、思ったほども食べていないのに満腹を感じ始めていた。まあ本人に返す時に食い過ぎて体が膨れ上がっていては申し訳がないので食生活に関しては中枢神経の指示に従うことにした。
 
 簡単な食事が終ると昨日と同じようにあちこち部屋を捜索して佐山芳恵の勤め先に関する資料を探した。昨日社員証を見た時佐山芳恵が勤めているのは外国語の教育や翻訳通訳関連の業務をしている会社だということは分かったが、この女が会社の中でどんな仕事をしているのかそれが分からなかった。教育企画課と名刺には書いてあったが、とんでもない言葉の教育企画だったらどうしようかなどと考えると少なからず不安になった。しかし『百聞は一見に如かず』の例えどおり実際に確かめて見るのが手っ取り早いと考え直した。

 思い立ったらじっとしているのがきらいなので僕はさっさと着替えをすると外に出た。今日も手強きパンストの要らないズボンにブラウス、転倒し難い靴、実用性重視のバッグといったどうみても男のような出で立ちになってしまった。顔はそのままにして出ようとも思ったが、ある女性が化粧をしないで外に出るのは裸で外出するのと一緒だと言っていたのを思い出して極めて薄くファウンデーションを塗って一番色の薄い口紅を選んで唇に塗る程度で勘弁してもらうことにした。この程度で外出するのは下着で出るようなものなのかもしれないが、それでも顔に油分が付着しているような違和感があって鬱陶しかった。

 近くの私鉄の駅から電車に乗ってそれと思しき駅で降りると会社を探した。住所を見ながら場所を尋ねるのは得意なので会社はすぐに見つかった。この手の会社は派手に売り出していてもそれほど大きな事務所を構えているところは少ないが、まあそこそこのビルに入っているそこそこの規模の会社だった。中に入って見ようかどうか外でしばらく考えていたが『百聞は一見に如かず。』の好奇心旺盛な精神は僕をビルの中へと導いた。

 休日なのに出入口にはきちんと警備員がいて僕が社員証を出すと行き先と名前を書くように言われた。僕は沈黙と笑顔で署名を済ませてそこを通過した。そしてエレベーターで会社の存在するであろう階に上がると廊下をうろうろしながら教育企画課を探した。

 さして広くないビルだから教育企画課はすぐに見つかった。ドアの前に立ってまるでこれから泥棒にでも入るように神経を集中してドアに手をかけようとしたらいきなり中からドアが開けられて心臓が止まってしまった。そのまま止まりっぱなしだったら案外幸せだったかもしれないが、止まったと思ったのは自分の感覚だけで心臓は胸の中で上へ下へと跳ね回るように動き続けていた。

「あれ、どうしたんだ。佐山さん。」

 また訳の分からない馬の骨が出てきた。こいつは馬の骨二号と呼んでやろうか。大体止むに止まれぬ事情があるから出てくるんだろう。どうしたんだなんて聞くんじゃない。しかしこいつが誰なのか全く知識がないので「ちょっと思い出したことがあって。近くに来たので。」などと曖昧なことを言ってごまかして部屋に入った。

 そしてまた心臓がスキップを始めたように鳴り出した。何とけっこうな数の馬の骨の群れが部屋の中に屯していた。どうして日本人はこうして勤勉なのだろう。それとも自宅にいても居場所もやることもないのだろうか。

 僕は不自然と悟られないようにそっと部屋を見回して自分の席を探した。言葉売り物の会社だけあってそれぞれのグループには英語、フランス語、ドイツ語、中国語などで表示がされていておまけに係員の名前まで掲示されているのには自分の机も分からない僕には地獄で仏を見た思いで涙が出るほど感激した。そこでさり気なく自分の席を確認するとその場所に移動すると席に着いて周りに怪しまれないようにファイルや書類を開いて佐山芳恵がどんな仕事をしているのかを確認した。

 どうも企業や学校などから依頼を受けた語学教育のカリキュラムや進行などについての企画をしているらしかった。そして現在担当中の企画が五件あるようだった。その書類を見て進行状況、先方の担当者の名前などを頭に入れた。仕事の内容はどうにでもなるようなやさしいものでもなかったが、僕自身も語学で生計を営んでいたので少し慣れれば出来ないようなものでもなかった。

 これから仕事をするには予備知識が必要なのでしばらくは真剣にファイルを読み耽った。面倒なのはプログラムのコスト計算だったが、これはどうも専門家がいるようだったのでこちらは概算を示しておけばそれでいいようだった。

「ちょっと遅いけどお昼を食べに行かないか。」

 いきなり後ろから声を掛けられてまた心臓が飛び跳ねた。『声をかける時はあらかじめ了解を取れよ』と言ってやりたかったが『君子危うきに近寄らず。』で状況を把握しないで深みに踏み込むのはお利口さんのやることではないと心得て朝食が遅かったとか何とか言って逃げてしまった。

 ちょっと様子を見てすぐに退散するつもりが何だかんだ細々したところまでかかわってしまって目に付いたすべてのファイルの確認を終ったのは午後の三時を過ぎていた。その場にいた者たちに挨拶をして部屋を出る時、全員が不思議そうな顔をして僕を、いや、僕ではなくて佐山芳恵を見た。そりゃ不思議だろう。人間の中身が全く変わっているんだから。しかしそんなことはどんなに説明しても絶対に分かって貰えないし、第一僕だって理解できないんだからどうにもしようがないことだった。

 女として外出するのはこれが二回目だったが、さほど周囲の注目を集めている様子も見て取れないことから少し落ち着いて余裕が出てきた。その余裕の分だけ男として外に出た時とは少し違いがあることに気がついた。まず何よりも変わっているのは何時も何となく誰かに見られている感じがすることだ。まあこれは自分が男だった時にはそれなりに気に入った女や特徴のある女を見ていたのだからあまり文句も言えない。

 どうせ僕の体でもあるまいし見たけりゃ見せてやってもいいのだが、それでは佐山芳恵に申し訳ないし、それにもしかしたらこのまま死ぬまで生きなければいけないかもしれないとすると無闇に尻や乳など出した日には僕の人格にもかかわるからやはり止めておくのが正解だろう。

 帰りがけに銀座に足を伸ばしてデパートの化粧品売り場に立ち寄った。適当に売り場をうろうろして商品を見ていれば向こうから声をかけてくるのは分かっていたのでそれまで待って薄目の化粧をと言って断わってファウンデーションとルージュを買って化粧の仕方を教えてもらった。相手の店員の言うことはほとんど外国語を聞いているようでろくに理解出来なかったが、それでも基本的なことは何とか飲み込むことが出来た。相手はどうも変な女と思ったようだった。

 もしかしたらニューハーフか何かと誤解されたかもしれないが、化粧品売り場の女と親戚付き合いをするわけではないから何と思われてもかまわないだろう。そしてついでにちょっとした夕食の材料を買って帰宅したら、もう午後も六時に近かった。