もうとっくに日は高くなっているようだったが、何と言ってもベッドでうつらうつらするのが好きだった。特に夕べはどういうわけか体が火照って寝苦しかったので尚更だった。そんな訳で僕は時々右に左に寝返りを打ちながら惰眠を貪って幸せを噛み締めていた。どうせそのうちに目覚し時計が起きろとがなり立てるのだし、それまでは誰が何と言っても起きないつもりだった。

 ところが確かにセットしたはずの目覚し時計は何時まで経っても鳴り出す気配がなかった。特に用事や待ち合わせがあったわけではなかったが、さすがに何時までも鳴り出さない目覚し時計が気になって霧が張り付いたようにはっきりしない頭を振りながら起き上がった。

 最初に目に入ったのは無闇とパステル系の装飾が多い部屋の内部だった。何所かに泊まってしまったかと記憶を手繰ったが、夕べは確かに自宅で寝たはずだった。今度はしっかりと目を開けて部屋の中を見回してみた。ドレッサー、化粧品、女物の衣類、ここはどう考えても自分の部屋とは似ても似つかない女性の部屋だった。

 僕はゆっくり起き上がって部屋の中を眺めながら台所に行って水をコップに一杯飲んだ。そして少し落ち着いてからもう一度部屋の中をよく観察してみた。部屋は1LDK、独り暮らしには適当な広さ、しかもそれほど派手な内装でもなく部屋の中はまあ合格というくらいには片付いていた。

 それにしても見たこともない部屋で目覚めたことにすっかり面食らって僕はベッドに座り込んだ。それでもその後にやって来た衝撃に比べればこれはほんの序曲のようなものだった。僕はベッドに腰掛けて昨日のことを思い出そうとした。特に記憶に残るような変わったことはなかった。仕事を終えてしばらく本を読んでからベッドに入った。強いて言えば体の芯が火照っているような感じで寝苦しかったが、だからと言ってどこか取り立てて具合が悪いというほどでもなかった。

 何度考えても僕は夕べ自宅のベッドに入ったのは間違いなかった。一体何が起こったのかといろいろ考えているうちに頭の中に世にも恐ろしい想像が頭をもたげて来た。さっきから胸で何かが疼いているような未だかつて感じたことのない違和感を何とか否定して振り払おうと僕は必死だった。

 『そんなばかなことがあってたまるものか。作り話やお伽話の世界じゃあるまいし。』

 実際にどうなっているのか目線をちょっと下げてみればすぐにはっきりすることだったが、僕は恐ろしくて目を瞑ってベッドに横になった。

 『夢だ、夢だ。悪い夢だ。早く覚めろ。』

 何度も心の中でそう叫び続けては恐る恐る胸に手を伸ばし、怖くなって引っ込めるのを何度も繰り返した挙句にとにかく勇気とか根性とか胆力とか、自分の心の中にあるそういう類のものを総動員して、自分の、いや、自分のものと言ってもいいのかどうかも分からない胸に手を触れた。

 やはりあった。大きくはないけれどしっかりと二つのふくらみが。僕はもう気が狂いそうだった。いっそのこと気が狂った方が楽かもしれなかった。鏡を見れば自分がどう変わったのかを確認も出来るのだろうけど、そんな勇気はどんなに蛮勇を奮っても出て来そうもなかった。まして体の下の方がどうなっているのかなんてことを確認するくらいならいっそ死んだ方がましだった。しかしそんな僕の頑なな決心も時が経つに連れて突き上げるように強まってきた生理現象によっていとも簡単に打ち砕かれてしまった。

 トイレに行って何時もならちょっとパンツを押し下げて引っ張り出せば済むところをわざわざ膝まで下ろしてしゃがみ込んで、しかも同じ行為でも出るところが数センチほど違うだけで終った後の爽快感に天と地ほども開きがあることに大いに戸惑った。長い間体の中のしかるべきところを通って排出されていたものが、突然その途中が破れて流れ出したような心地悪さだった。それに下腹部に申し訳程度に張り付いたこの下着の心地悪さは一体何なんだ。こんな切れ端のような布では力も入らない。僕はやり場のない不満を持ち切れないほど抱えながらベッドに戻るとそこにどっかと座り込んだ。部屋のあちこちに鏡はあったが、それを覗き込むような勇気はとても出そうになかった。
 
 何時の間にか昼に近くなっていた。何とかしなければとは思ったが、どうしてこんなことが起こったのか、それさえ把握できない状況では二の手も打ちようがなかった。僕は壁に寄りかかってベッドに胡座をかいて座った。僕は視線を落として誰のものかも分からない下半身や組んだ足を見つめた。それから視線を上げて部屋の中を見回した。それを何度も繰り返してみたが、当然のこととは言え何の智恵も浮かんで来なかった。
 
 『とにかく何か腹に入れよう。』

 そう思って立ち上がったのは昼も大分過ぎてからのことだった。台所に行って冷蔵庫を開けるとジュースやら牛乳やらの飲物と林檎とバナナを見つけた。手をかけて何かを用意する気分にはなれなかったので牛乳とバナナを持ち出して居間に運んだ。とにかく今の状況を把握しようと思い立ったのはそれらを腹に流し込んでからだった。

 まず手始めに自分がどんなに変わったのかそれを確かめようと今まで顔を背けていた洗面所の鏡の前に立った。昨日まで身長が175センチ近くあった自分の目線がそれほど変化したという感じがしなかったので僕が化けた女はずい分背の高い女とは思っていた。

 覚悟を決めたとは言うものの新しい自分の姿を見るのはさすがに勇気が必要だった。洗面所の鏡の前に立って恐る恐る顔を上げるとそこには三十代半ばと思われるかなり大柄な女性の姿が鏡の向こうに立っていた。その姿を見て少しばかり安心したことには向こうに立っている女は派手で見栄えのするタイプではないものの大きな目や締まった口元にそこそこ知性が感じられ、決して自分の嫌いなタイプではなかったことだった。

 一安心した後で次に僕がしたことはこの女が一体何者なのかを調べることだった。僕は寝室に戻るとドレッサーの脇に置かれたセカンドバッグを開いてみた。この場合バッグは自分の所有物といっても間違いではないだろうと思ったが、何だか泥棒にでもなったように後ろめたかった。この女の物といえば良いのか自分というべきなのか、とにかく身元はバッグの中から出てきた免許証や社員証ですぐに分かった。

 『東京都目黒区碑文谷・・・、佐山芳恵』

 名前が知れたからといってこの状況が変わるわけではなかったが、突然自分が名乗ることになってしまった女の名前と今自分がいる場所が分かったことだけでも大いに安心出来た。
 
 それからまるで泥棒か探偵にでもなった気分で家の中を物色しまくってやった。そうしてこの女の勤務先から収入、預金額、経歴、学歴から家族、交友関係まで調べ上げた。
出身は北海道で母親と弟がいたが、いずれも北海道に在住しているようで突然訪ねられる心配はないようだった。親しい友人も数人、学生時代の友達や勤め先の友人がいるようだったが、学生時代の友人は皆結婚しているようで他の友人も自宅に招いたり招かれたりしているような仲ではなさそうだった。
 
 問題は二人の男の名前だった。一人は別れた夫のようだった。別れたのだから特段の事情でもない限り訪ねて来たり何処かで会ったりすることはなさそうだった。もう一人は、これが一番問題だったが、どうも現在付き合っている男らしかった。当然この年齢で交際している男性がいるということは、しかも年の割には甘えたようなメールの内容を併せて考えると、それなりの付き合いをしていると考えるのが道理だった。
 
 『もしもこの男が訪ねて来て、ここに泊まるなどという状況になったら、その時は花瓶で殴りつけても逃げるか。』
 
 それは僕にとっては冗談事ではない一大事だった。一夜にして自分の体が何処の誰とも知れない女のそれに入れ替わってしまっただけでも僕にとっては驚天動地の大動乱なのに、そのうえ男などに圧し掛かられたらそれはもう自身の存在それ自体にかかわる問題だった。

 『この体の持ち主には申し訳ないが、男のことは諦めてもらおう。』
 
 これが僕が極めて短時間のうちに導き出したこの問題に関する結論だった。