節。亨。苦節不可貞。 | 山と料理と猫、そしてクラカメな日々の備忘録

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ここ数日は心なしかとても密度の濃い数日だった。

仕事上いろいろと艱難辛苦に遭遇したが、それなりに変化の節目を感じること多く、わけてもそれは中国の古典『易経』にある「水沢節」にある箴言を想起せしめた。

 

中国の古典『易経』は、四書五経のひとつ。かつては科挙の入学試験での必須科目のうちのひとつであり、また歴々の王が自らの政(まつりごと)、政略の良し悪しを占うのに用いられてきたツールでもある。

東洋の古典の中では最古の古典であり、古典中の古典である。

そして古典にはよくあることだが、誰が著したのかはわからない。

大乗仏教の経典が複数の著作者によって著されたのと同様、長い歴史の中で複数の著作者の手によって、いまあるかたちにまとめられたのであろう。

 

 

このテクストはただ単に物事の良し悪しを占うためだけのツールとして遊ばせておくには、あまりにももったいない豊穣な内容を持っている。

 

「卦」といって、この世の一側面をひとつの「卦」に切り取り、それらを64面の相に類型化して、それらを組み合わせ、それらの連関の中にも新たな相を見出そうとしているという内容である。

 

世界を類型化して捉えるという意味では、形式的な体系に終始しており、近代においては「形而上学の伽藍」と批判されるような形式の典型的な古典的予定調和説である。そう、かのライプニッツはまさしく「形而上学の伽藍」を代表する予定調和論者であったが、彼もまたこの中国古典に傾倒し、2進法(バイナリ)を編み出したのだ。

 

 

またこの古典の表明しているある意味シニカルな人間観察眼にも着目したい。時としてフランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーを彷彿とさせる冷徹な観察眼を目の当たりにすると、図らずも胸をえぐられるような思いに駆られる時もある。

しかしその一方で、いまさらこの形而上学の伽藍の権化を手放しで評価することについてはためらいを感じるのも、もうひとつの率直な気持ちとして吐露せねばなるまい。しかしまたその一方で、この形而上学の伽藍の権化は、読み解き方次第では、世界を観照する上での新たな光を照らすきっかけとなるのではないかとも思うのである。

 

そうした意味で、わたしのなかでは複雑な評価の古典、それが『易経』である。しかし、面白いことには変わりないので、時々読み返すこともある。実は64卦すべてについて、大筋で暗記しているくらい読み込んでいたりする。…「なんやかんやいって、アンタも好きね」と云われかねないが(笑)

 

 

さて前置きはこのくらいにして、今回はその『易経』の中の「水沢節」が心に沁みたので、ご紹介させていただきながら、その世界観を敷衍させていくことにしよう。

 

 

卦辞:節。亨。苦節不可貞。(節は亨る。苦節貞するべからず。)

 

「亨る」とは、「通じる」であり、障害なく物事が進むという意味。

あるいは「~できる」「可能となる」という意味。道先の障害が解消して、その先の道を歩き進めることができるという意味。

「貞する」とは、「善しとする」という意味。あるいは「価値を重んじる」というニュアンスがある。

ここで「苦節貞するべからず」とある。

これは「苦難を善しとする価値観に縛られるものではない」、あるいは時間軸に着目し、「『既に起こった苦難』、すなわち過ぎ去った過去の痕跡にいつまでも囚われるのではない」という訓戒として解釈してもよいだろう。

なぜならば、宇宙は絶えず変転し、そのつど変節の「節目」を芽生えさせているのだから。

 

 

この卦の形象は、上に「水」下に「沢」である。

「水」は苦難を、「沢」は悦びを象徴する。

ここで着目したいのが、水の位置。

水は限りなく生成して、湖を満たす。しかし地上に溜め込む器たる沼や湖の容量には限りがある。大海とて陸地が相対する以上、限りある空間である。したがって当然の理(ことわり)であるが、水は容器の容量を上回れば、オーバーフローで外にあふれて流れ出す。

苦難は実に多様であり、限りなく生成する可能性を持っているが、しかし、苦難を許容する時間と空間には限りがある。

そうした意味で、苦難はいずれ走り去る。

そう、その苦難とは、永久に続くかのように見えて、実は、一時の表象に過ぎないことを「節」に象徴させる。

節は無限の世界を有限の型枠のなかに「切り取る」。

その「切り取り」はわれわれ有限なる存在が無限の世界に対してはじめて「定める」認識であり、それによって、物事が「節度を持って」過不足なく、適正に進行していく。あたかも容器に満たされた水に過不足がないように。

 

「節」に象徴せられる「定め」「区切り」は、次につながる未来を志向する。なぜならば、『易経』の世界観の基底には、「万物は流転する」という無常観が流れているからである。

 

しかしわれわれは万物の表象に「意義」なり「価値」なりを見出そうとする。特に苦難の経験について、われわれはそこに意義を見出すことに躍起になる。なぜならば、その苦難が無意味であることは、すなわち過去に経験してきた自己のアイデンティティを否定することであり、それはすなわち過去から連なる「自己存在の意味の連続性という自己救済」を断ち切ることに他ならないからである。ラ・ロシュフコー的な言い回しが許されるのならば、われわれが目するそうした美徳とは、その実、何かに執着する悪徳の別の表現に過ぎないのかもしれない*1。

 

*1 出典:ラ・ロシュフコー『箴言』エピグラフより~

我々の美徳は、おおくの場合、偽装された悪徳にすぎない。

Nos vertus ne sont, le plus souvent, que de vices déguisés.

Our virtues are most frequently but vices in disguise.

 

しかしそれは万物そのものにとってはどうでも良いこと。

もしかしたらその「意味探し」には意味がないのかもしれないのだ。

むしろ「節」とは、そうした自己に染み付いて手垢に塗れた「自己存在の意味の連続性」を断ち切ることを教示しているのではないか。すなわち「自己執着」という迷いからの解放を、「節」がその古い執着に代わるべき新たな道標として、標榜させているのではなかろうか。

「節」の特性について眺めてみると、定めて映像の一コマ一コマが立ち止まりつつも、連続しながら流れる様相を呈している。それはまさに「節」の特性がアンヴィヴァレントな性格の動態であることを示す。

流れつつも、立ち止まる。生起しつつも消滅する。

その一コマの節、それは「それ以上でも、それ以下でもない瞬間」であり、「その瞬間を切り取った一コマ」なのだ。それらは刻々と変転する節の連続なのである。

われわれこそ、もしかしたらその節々に、過大な評価や過小な評価、すなわち「過剰な判断」を盛り込んでいるのではかろうか?…実は易経は、われわれに対してこのような批判の矛先を突き付けているのではなかろうかと思うのである。

それは、なにかにつけ無駄に意味深長で、不必要に冗長な意味づけを是とするするわれわれ自身の世界観に対する大いなる疑義であり、批判なのである。われわれは常に、個人であれ共同体であれ、そうした過剰な幻想を抱きやすい傾向にある。

 

 

そう、運命の女神の微笑は、意味深長に見えながらも、現実には空っぽなものなのかもしれないのである。

そして「沢」である。「沢」はその状況に対峙すべき姿勢を示す。

「水」という険難に対して、「沢(悦び)」でもって対処する。そのように教示するのである。

ところでここで、なぜそこでの態度が「悦び」であるのか。そうした態度自体に過剰な評価が含まれてはいないか?

しかしそこに過剰な意味づけをしてはならない。おそらくその「悦び」には「過剰な価値観」が立ち入る余地はないはずだ。

ここで教示される「悦び」とは、「構えず自然に受け入れること」ではなかろうか。

たとえば苦難に過剰反応を示すあまり、躊躇しながら受け入れるとすれば、そこに過剰な恐怖心が生じ、あたかも目の前にぶら下がる大繩が大蛇のごとく映ってしまうかの如き過ちを犯しかねない。あるいは逆に、カラ元気な強がりをしてみても、かえってそれは過剰なアレルギー反応を呼び起こすか、ニヒリスティックな虚しさを呼び込むだけであろう。

そうではなく、「悦び」は今ある現実を虚心坦懐に素直に受け止めるということに他ならないのではなかろうか。

そうした意味で、この「沢」は「運命への愛(amore fati)」を内に包む悦びであり、運命の車輪を前へと推し進める動態に止揚せられるのである。

明鏡止水の心持で、淡々と且つ粛々と道のりを歩んで進めということだ。

そこがこの卦のポイントではなかろうかと思う次第である。

 

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C.P.E.Bach『音楽通・愛好家諸氏のためのソナタ集』より「カンタービレ~ソナタ第3番Wq.55より(ライプツィヒ、1779)」。

時代は「理性の世紀」と呼ばれる革命前夜(アンシャンレジーム)の18世紀、大バッハの次男の手によるこの内省的な作風は、次世代のロマン主義における個(individual)の表出を一歩先んじて予見しているように見受けられる。

 

今日も一日、お気持ちやすらかに…。