遍路第八日目 | 萩天の空

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2007年(平成19年)10月10日10時15分、第18番札所恩山寺の駐車場に到着です。まず、前回できなかった、参拝を済ませました。10時50分に、恩山寺を出発しました。

牛舎の横を通って、山道に入り登り始めました。そこは、一面の竹林でした。あまり手入れが行き届いていないのか、枯れた竹がそのまま立っていたり、斜めに傾いたまま、残っていたりしています。竹林の中の細い道を、歩いていくと「弦巻坂」との、大きな案内板がありました。横には、遍路道を示しているかのように、小さな石仏がありました。
義経が、この道に来た時、敵兵がいないことを確かめて、弓の弦を巻かせたので、その名がついたそうです。
車道を横切って再び、竹林の中ヘ下っていきます。今度は、古木に囲まれたお墓や、石仏群のある「弘法大師おむつき堂」と、看板が立っているところに、「弦張坂」の案内板がありました。
やはり、義経が、峠の向こうの敵の伏兵を警戒して、弓の弦を張って登って行ったとのことです。

さらに下って車道に出ます。そこは開けたところに、集落が目に入って来ました。道には、コスモスの花が溢れ、あちこちに咲いています。車道からあぜ道のような、細い道に入り今度は、彼岸花の咲いている疏水の脇の道を進み、疏水に架かる小さな石橋を渡ります。
再び車道に出て歩いていると「市山煙火商会」の立看板に出会いました。花火を作っているのか、コンクリートで固めた要塞のような、建物もあって雰囲気がありました。

次に目に付いたのは、「お京塚」との大きな石碑でした。小さな建物もありました。この時は、お京さんとはどの様な人物なのかは、定かでは無かったのですが、次の立江寺で、その素性がハッキリとしました。「お京塚」の場所は、改心したお京さんが住み、祈り続けて一生を終えた場所だそうです。

第19番札所立江寺は、「阿波の関所寺」と言われています。悪行をした遍路は改心しないと、ここから先に進めないと信じられて来ました。立江寺手前の白鷺橋にも、同様の言い伝えがありました。

車道をそのまま歩いていくと、欄干や手すりが赤い色の橋に出会いました。これが白鷺橋で、邪心のある人がこの橋を渡ろうとすると、足が動かなくなり、前へ進めなくなると言う。その時には、必ず白鷺が一羽橋に舞い降りていたそうです。善男善女は、すっと通れるということでした。

12時ちょうどに、立江寺に到着しました。立派な山門の両側には、仁王さんが立っていました。時間が時間なので、直ぐに境内を使わせていただいて、昼食タイムに入りました。立江寺は、本堂や大師堂も堂々とした立派な建物でした。大師堂の脇に先のお京さんの「肉髪付鉦(かね)の緒」が、祀られていました。

江戸後期、お京という芸者が、大阪で深い仲になった男と島根で結婚するが、別の男とも懇ろになり、その男と一緒に夫を殺して、四国遍路に出ます。そして立江寺で、お京の髪の毛が逆立ち鉦の緒に巻き付いたまま、離れなくなります。お京は、すべてのことを打ち明けますが、髪が解けないまま肉もろとも削り落ちます。その鉦の緒が前記のものです。

立江寺を打って、13時10分に歩き出しました。田園風景の中を進みます。櫛渕(くしぶち)の町に入りました。「阿波の櫛渕」という立派な歌碑が、道端に立っていました。「阿波の櫛渕 春ともなれば 山は竹の子 背くらべ 風をたもとに 菜の花蓮華 花が彩る ふるさとよ ーーーーーー」とありました。また、天然記念物「櫛渕のフウ」の案内板がありました。楓の一種のようです。
ススキの穂が白く輝いている小さな川の脇道を、歩いて大きな車道に出ました。勝浦川が大きく曲がっている所です。勝浦川の流れに沿って県道を進み、今日の目的地の生名の街に15時55分に着きました。県道沿いの大きな商店の駐車場から、迎えのバスに乗り16時28分帰路につきました。OCATには19時50分に到着しました。

今日は、行き帰りとも、大きいうず潮が見えました。

ツアー代金 ¥7,300.ー 移動距離 14.1キロ 参加人員 22名 参拝寺数 2