「瓦」の漢字は、 屋根の半円の筒型瓦が組み合わさっている形を象り「かわら」の意を表す象形文字が由来です。

石川県には能登瓦や加賀瓦があります。

能登瓦は裏面にも釉薬をかける「ドブづけ」と言う手法で焼かれた、風や雪に強い釉薬瓦。

黒光りする能登の屋根瓦は、北陸の厳しい気候風土に対応した物。

金沢や能登の伝統的な屋根瓦の色は「黒」。

これに対し、南加賀は「赤」が多い事で知られる。

取り分け橋立や東谷地区、大聖寺の山ノ下寺院群が顕著で、独自の景観を形成している。

加賀の赤瓦=加賀瓦は、その色合いや軒先の紋様から島根県の「石州瓦」の系統だと考えられている。

山陰地方でも赤い屋根の家並みがよく見られるとの事。

これが江戸後期に北前船で技術移入され、橋立の北前船主らが富の象徴として用いた事が始まりの様だ。

凍害に強く、雪国にもぴったりの瓦なのである。

約1300℃の高火度で焼かれています。

戦国時代末期の城郭建築で使われ、江戸末期に北陸の一部に普及した古い製法。

その耐久性は非常に高く、数百年前の瓦が現代でも未だ屋根に乗っている程。

屋根瓦の色は、陶芸等にも使われる艶を出す為の薬「釉薬」によって違って来る。

釉薬を塗らない物は「燻し瓦」と言いますが、釉薬をかけた瓦は、燻し瓦よりも水が浸透し難く、汚れや雪を滑り易くし、更に強度も高まります。

石川県の瓦界の御意見版である長田和明さんによると

「昔の金沢は

一般庶民は藁葺き屋根で

瓦を葺く家では

燻し瓦が使われていました。

それが

明治時代後期に

瓦を焼く窯が

達磨窯から登窯になった事で

大量の瓦が作られる様になりました。

今迄50枚焼けていたのが

一気に20倍の1000枚も焼ける様になったそうです。

そして

この登り窯は釉薬をかけた黒瓦を作るのに適していた」

とか。

※「達磨窯」:手前に焚口があり、その奥に焼成室がある。焼成室の床には、火の通りを良くする為にロストル(焚き火台の底に敷いて使う頑丈な金属で作られた網や台の事)の役割を果たす畦が造られている。瓦を焼くこの平窯は外見が達磨が座った様な形であったので、達磨窯と呼ばれました。※

※※「登窯」:傾斜地に数個の窯室を階段状に連続して築いた陶磁器焼成窯。下方の窯室からの廃ガス及び余熱を利用して順次後室を焚(た)き上げる。※※

瓦は県外にも出荷され、明治時代後期、石川県は瓦の産地になったらしい。

経済的な上に、黒瓦は、赤や青の瓦と違い、裏にも釉薬が塗られており、耐久性にも優れていたので、金沢には黒瓦が普及して行ったそうな。

日本の瓦は、日本瓦と洋瓦の大きく2つに分けられている。

日本瓦は和形、洋瓦は洋形とも呼ばれる。

嘗ては「瓦」と言えば専(もっぱ)ら粘土瓦を指したが、近年では様々な素材の物があり「瓦」だけでは他の素材と区別がつかなくなってしまうので、粘土瓦を敢えて区別する場合は「本瓦」と言う。

釉薬の使用の有無によって、釉薬瓦と無釉薬瓦に分けられる。

尚、日本三大瓦産地は

三州瓦 - 愛知県の中部地方・西三河(岡崎市、碧南市、刈谷市、安城市、豊田市、西尾市、知立市、高浜市、みよし市、額田郡幸田町)

石州瓦 - 島根県の西部・石見地方(江津市、大田市、浜田市、益田市)

淡路瓦 - 兵庫県淡路島

である。

これ等の瓦は、出荷構成比の9割近くを占めているらしい。

他には富山県の「とやま瓦」や、福井県の「越前瓦」や「若狭瓦」もある。

日本瓦の形は、丸瓦・平瓦・役瓦(役物瓦)の3つである。

日本瓦の一つとされている本瓦を用いる本葺では、屋根地の広範囲は、男瓦(おがわら)である丸瓦{「並丸」とも言う。円筒を縦に割った様な形状}と女瓦(めがわら)である平瓦{「並平」とも言う。四角形の板を凹方向に湾曲させたのみの形状。特に軒平瓦の下に葺く瓦を「敷平」と言う}を組み合わせて葺き、棟や軒先、ケラバ(袖)部分に多種類の役物瓦(役瓦)を使う。

住宅建築によく見られる様な桟瓦{「さんがわら」本瓦の丸と平を1枚に合わせた形状で、通常の本瓦よりも軽量。名前は障子の骨である“桟”に準(なぞら)えて「桟」瓦}は平瓦に属すが、丸瓦を併合してあるので丸瓦を使わない。

本葺き形や桟瓦葺以外の形状デザインの瓦にも、基本の瓦である「平瓦」と特殊な役割を持つ「役瓦」がある。

何れも、瓦葺きにはその専門職である屋根工事業の瓦葺職人が行う。

瓦(roof tiles)は、屋根葺きに用いられる代表的な建材である。

歴史的に見れば、用いられて来た瓦の殆どが粘土を焼いて作られていた物であり、他の素材の物は余り無かった。

「瓦」という漢字は、元々は屋根の建材に限らず、粘土を素焼きした物全般を意味している。

ドイツでは、粘土製の物を他の物と区別してZiegel(ツィーゲル=瓦、煉瓦)と呼んでいる。

粘土瓦は、屋根葺き材料の1つ。

粘土を混練、成形、焼成した屋根材の総称。

単に瓦と示す場合、大抵は粘土瓦の事を指す。

JIS<日本産業規格(Japanese Industrial Standards)>の製法区分では釉薬瓦(陶器瓦)、燻し瓦{素地の状態で瓦を焼成し、後にプロパンガスや水で希釈した灯油等を用いて燻し、瓦表面に炭素膜を形成した物。瓦は裏も表も均一な黒色となる}、無釉瓦に分けられ、釉薬瓦には塩焼瓦(しおやきがわら)を含むと定められている。

塩焼瓦は、焼成の最終段階で、釉薬の代わりに食塩を投入して焼いた瓦で、吸水率が低く凍害に強く変色性も少ない。

その色から赤瓦とも呼ばれている。

釉薬瓦とは、表面を釉薬で化粧した粘土瓦の事で、JISの製法区分上の名称として定められる。

2004年の経産省工業統計では瓦の出荷量の78%を占める。

日本最大の産地は「三州瓦」の愛知県西三河地方、次いで「石州(せきしゅう)瓦」の島根県石見地方となっている。

続日本紀には767年、平城京の東院玉殿に「瑠璃(るり)の瓦をもって葺く」との記述があり、古来からの屋根材である事が分かる。

古くは瑠璃瓦と呼ばれていた。

陶磁器の焼成区分上は「陶器」に当たる所から、「陶器瓦」の呼称もよく使われる。

日本書紀には崇峻天皇元年(588年)に百済から4人の瓦博士が渡来したと記されている。

瓦博士が造瓦術を伝えたのは飛鳥寺だが、後の平城京遷都の際、奈良県奈良市にある南都七大寺の元興寺(がんこうじ)に瓦等が移築、再使用されている。

飛鳥寺は鎌倉時代に全ての堂塔が失われたと言われているが、瓦博士の指導により作られた日本最古の粘土瓦が、今でも奈良元興寺の極楽坊本堂・禅室に葺かれている。

瓦は、洋の東西を問わず古くから用いられている。

然し、瓦が誰によって何時頃発明されたかは分かっていない。

発見されている世界で最も古い瓦は中国の陳西省西安の近郊から出土した物で薄手の平瓦である。

中国では夏王朝(紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃?)の時代に陶製の瓦が作られていた記録があり、春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑<成周:今の河南省洛陽市>へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一する迄の時代)の瓦は遺物として残っている。

西洋では・・・例えばギリシアでは古代ギリシアの時代から、民家は茅葺き屋根と並んで瓦屋根も用いられていた。

パルテノン神殿{「パルテノン」の名称はギリシア語の(処女宮:黄道十二宮の6番目)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたと言う}も、(現在では遺跡になり、木部が消失し、下から見ると白っぽい石製の柱やファサード{建築物の正面部分<デザイン>}ばかりが眼につくものになってはいるが)元々神殿として使われていた当時は、屋根部分は木組みになっており、屋根の表面は大理石(マーブル)<石灰岩が変成作用を受けて出来た粗粒の方解石(カルサイト)からなる岩石。岩石学では「結晶質石灰岩」と呼ぶ>の瓦で覆ってあったのである。

因みに英語では屋根瓦は「(roof)tiles」と呼ばれる。

「tile」は「cover(覆い)」と言う意味のラテン語「tegula」を語源としておりそれが古英語でtileとなったものであり、tileも主として粘土を焼いて作られており、屋根や壁を覆う事に使われている訳である。

英語では屋根瓦を指す場合にも「tile」と言うだけでも大丈夫だが、「屋根覆い」の分類をはっきりさせる場合に「roof tile」と言う。

粘土瓦の他にセメント瓦や鉄瓦、アルミ瓦、ガラス瓦に石瓦、「厚形スレート」こと「プレスセメント瓦」、ステンレス瓦にチタン瓦にガルバリウム(アルミニウム 55%+亜鉛43.4%+珪素1.6%の合金)瓦と種類も豊富な瓦に関してでした。

※「厚形スレート」:元々「スレート」とは「粘板岩(ねんばんがん)/泥(でい)岩や頁(けつ)岩が圧密作用によりスレート劈開を持った物」の事を言うが、粘板岩を用いた瓦では無く、セメント1に対して砂2の割合で調合したモルタルを高圧油圧プレス成形で造られる瓦※

尚、辛抱しんちゃん家の屋根には瓦は葺いておりません・・・おおお・・・