2017年のブログタイトルは辛抱しんちゃんのブログ11~夢を見るから、人生は輝く -戦いに勝つのは、必ず勝とうと堅く決心した者だ-とした。

 「夢を見るから、人生は輝く」:これは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの言葉である。
 古典派音楽の代表であり、ハイドンベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。
 称号神聖ローマ帝国皇室宮廷作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長等を務めた。

 只まあ、偉大な作曲家だけど、逸話がまあ、人間臭いっつーか、何と言うか・・・モーツァルトは従姉妹に排泄に纏わる駄洒落に溢れた手紙を送った事がある。
 いわゆる「ベーズレ書簡」と言われる物で、「あなたの鼻に糞をします」「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!僕のおしりが火事になった! どういう事! 知ってるぞ、見えるぞ、舐めてやろうか、ん、何だ? - ウンコが出たがってる? そう、そうだウンコだ。俺は変態だ!」等の記述がある。  
 スカトロとは・・・  従姉妹はマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと言い、父・レオポルトの弟の娘で、ヴォルフガングがこの女性と従姉妹以上の恋愛関係にあったともされる。
 ベーズレ書簡はヴォルフガングの死後、息子達によって破棄を望まれたが、現在6通が保管されており、これ等の手紙は彼の男性的で激しい部分や、言葉による旺盛な想像力と好ましいセンスを証明している。
 遠く離れた妻のコンスタンツェにあてた手紙では、そういった言葉づかいは見当たらず、繊細さや優しさを帯びた手紙となっており、何本かの手紙は実に詩的なものである事も忘れるべきではない。
 他に『俺の尻をなめろ』(K.231、K.233)というカノン(「追複曲」とも言う。複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式の曲を指す。ポリフォニー複数の独立した声部(パート)から成る音楽の事。只一つの声部しか無いモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。>の一つの典型である。一般に輪唱と訳されるが、輪唱が全く同じ旋律を追唱するのに対し、カノンでは、異なる音で始まるものが含まれる。又、リズムが2倍になったり、上下又は左右(時間の前後)が逆になった様な特殊なものをも含む。)も作曲する等、この類の話は彼にスカトロジーの傾向があったと屡々(しばしば)喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者同士での尾籠な話は日常的なものでありタブーではなかったし、又、モーツァルトの両親も大便絡みの冗談をいっていた。
 モリエールが浣腸の物語でフランス国王を楽しませた時代のフランスも、その100年後にル・ペトマーヌの放屁芸を見物しようと押し寄せたパリの高級住宅街の住人も同じであり、フランスの劇作家であるロジェ・ヴィトラックは「勝利または権力をもつ子どもたち」で中心人物であるル・ペトマーヌを演じている。
 19世紀の伝記作者はスカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。
 又、上掲の「俺の尻をなめろ」"Leck mir den Arsch"、"Leck mich im Arsch" は英語の"Kiss my ass"(「糞ったれ!」など)と同類の慣用表現であり、下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえない。
 その他冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。
 精神医学界には、こうした珍奇な行動がサヴァン症候群によるものであるという憶測もある。
 九柱戯ボウリング)やビリヤードを好み、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた。
 ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。
 賭博にもよく興じたという。
 高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引越しをした。
 モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である。



かかk

 副題の『戦いに勝つのは、必ず勝とうと堅く決心した者だ』は、小説家のトルストイの言葉である。

 レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、帝政ロシア小説家思想家で、フョードル・ドストエフスキーイワン・ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。
 代表作に『戦争と平和
 文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。
 非暴力主義者としても知られる。
 日本ではトルストイは最も尊敬された外国作家の一人である。
 文学者・宗教者・社会主義者等広範な人々が影響を受けている。
 初めて作品が翻訳されたのは1886年(明治19年)であり、森鷗外幸田露伴といった一流作家も重訳ながら短編を翻訳した。
 徳富蘇峰徳冨蘆花等はヤースナヤ・ポリャーナで直接面会している。
 森鷗外や島崎藤村も作品に親しんだ。
 日露戦争反対の論文『悔い改めよ』(1904・明治37)は、幸徳秋水堺利彦らの『平民新聞』に掲載されて社会主義者を鼓舞し、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』執筆の契機となった。
 『平民新聞』の関係者であった木下尚江中里介山も以後トルストイと関わって行く事になる。
 同じ頃賀川豊彦は作品を読んで反戦思想を形成しつつあった。
 1914年(大正3年)から島村抱月によって悲恋物語に脚色された『復活』が松井須磨子主演で上演され、大評判となる。
 大正期にはトルストイの思想が白樺派の文学者を中心に大きな影響を及ぼしている。
 武者小路実篤の「新しき村」の運動や有島武郎の農地解放はその例である。
 宮沢賢治も文豪に関心を寄せた作家として挙げられる。
 又、最初の全集も大正期に出版されている。