ケツメイシ / さらば涙 MV

 涙(なみだ、)は涙腺から分泌される体液の事である。
 眼球の保護が主要な役割であるが、ヒト特有の現象として感情の発現として涙を流す事がある。
 通常の分泌量は1日平均2-3cc
 立方センチメートル(りっぽう centimètre cube)は、体積単位である。 その単位記号は cm3 である。
 英語の cubic centimetreやそれに相当する各国語をした cc(シーシー)も用いられる事があるが好ましく無い。
 1立方センチメートルは、一辺が 1 cm(センチメートル)の立方体の体積と定義される。
 1 cm = 1/100 m なので、1 cm3 = (1/100 m)3= 1/1 000 000 m3 である。
 尚、1/100 m3 では無い。
 1964年以降では、1 mL(ミリリットル) = 正確に 1 cm3である。
 尚、1 cm3 質量 1 g(グラム)である。
 1901年から1964年迄は、「高精度測定の為の体積の単位は,最大密度で,標準大気圧の下にある1 キログラムの純水によって占められる体積であり,その体積を「リットル」と称する.」と定められていたが1964年に変更された。
 測定結果によれば、最大密度は3.98、1気圧において、 0.999 972 g であったので、それに応じ 1 mL = 1.000 028 cm3 だった。
 1964年の第12回 CGPM<国際度量衡総会>以降は、1 mL = 正確に1 cm3 となった。
 リットルと言う名称は,高精度の体積測定の結果を表す為には使用されない様、国際度量衡総会が勧告しているにも関わらず、多くの科学の分野では、立方センチメートルはミリリットル(mL)に置き換えられている。
 アメリカ合衆国においては、医学自動車の2分野においてのみ、立方センチメートルが未だに使われ続けている。
 イギリスにおいては、医学では立方センチメートルよりは寧ろミリリットルの方が使用されるが、自動車の分野ではそうでは無い。
 他の英語圏の国においては、立方センチメートルが使われ続けている。
 国際単位系(SI)では、ccの使用は認められていない
 又,日本工業規格JISにおいても使用出来無い単位となっている。
 日本の計量法においては,取引や証明には「cc」で無く、cm3を使う事が望ましいとしている。
 現在、医学の分野では「処方箋等での cc を、"Do Not Use" list に入れて、その使用を廃止しよう。」と言う運動が進行している。
 これは、手書きの cc が 00 と見誤り易い、又はunitsの「U」と見誤り易い為であり、それにより、場合によっては致死量に達する薬品の適量超過の恐れがある為である。
 アメリカ合衆国では、医学上の略語によって引き起こされたミスの内の12.6%が、立方センチメートルの意味での「cc」に関するものである
 ccの代わりには、mLを使用する事が推奨されている。
 又、μgmgに間違われ易いので、代わりにmcgを使う事が推奨されている。
 日本では、主に自動車(四輪車)や二輪車等のエンジン排気量の単位として広く用いられ(自動車メーカの公式サイトやカタログ等の表現では表向きは「1.998L」と表現されるが、「(1,998cc)」と併記する場合がある)、運転免許の区分等公的な規定や公文書でも「cm3」や「(m)L」では無く「cc」が依然として使われている場合がある。 嘗て牛乳瓶等小型容器の体積或いは内容量を表す単位としても幅広く使われていた。
 涙の98%は分でタンパク質アルブミングロブリン、後述のリゾチーム等)、リン酸塩等も含有する。
 一般的に弱いアルカリ性の液体である。
 分泌された涙液は目の表面を通過した後涙点に入り、涙小管・涙嚢・を経て、から再吸収される。
涙には以下の様な役割があるとされている。
 涙は「油層」「水層」「ムチン層」の3層で目を保護しており、その3層の合わせた厚さは約7µm
 涙の持っている抗菌成分はリゾチームと言う。
 このリゾチームは、細菌の細胞壁(ペプチドグリカン)を分解する作用を持つ。
 眼の使用頻度によって涙が蒸発し易くなったり分泌量が減ったりすると、ドライアイと呼ばれる状態に陥る。
 感情が高ぶった際にも多量に分泌される。
 悲しい時、嬉しい時に流れる事が多い。
 痛みを感じた時や、吐き気がする時、大笑いした時、あくびをした時等に流れる事もある。
 感情による涙の場合は通常の排出(涙点経由のもの)では間に合わず、涙が目の外へ流出する。
 悲しみ等によって涙を流し、声を出す一連の動きの事を「泣く」と言う。
 大量の涙を流した際に出てくる鼻水は、涙が鼻涙管を経由して排出されたものである。
 感情が高ぶった時に人は何故涙を流すのかと言う問いに対して、生化学者のウィリアム・フレイ二世(William H. Frey II)は
涙は
感情的緊張によって生じた
化学物質を
体外へと除去する役割があるのだろう
 と言う仮説を提案し、自身の仮説の妥当性を調べる為に実験を行った。
 実験の内容としては、被験者に如何にも涙を誘う映画を見せて収集した涙と、同じ被験者にタマネギを剥かせて収集した涙の、成分の比較をすると言うものであった。
 80人余りの被験者の涙の比較は、(この時点の実験で用いられた検出能力でも、少なくとも)感情による涙は、刺激による涙よりも、より高濃度のタンパク質を含んでいると言う事を示していた。
 フレイはその実験内容を含む著書を1985年に出版している。
 この実験は、感情と涙の成分には何らかの関係がある、と言う事を示しており、フレイの仮説を大凡(おおよそ)裏付ける内容となっているが、様々な種類の感情とタンパク質の関係が明らかにされている訳では無い様である。

 ・・・「涙」「泪」とは、多くの漢和辞典では異体字(標準の字体と同じ意味・発音を持つが、表記に差異がある文字)の関係にあるとされています。 
 つまり、両者は同じ言葉を書き表す為の文字で、発音も意味も同じなのです。
 但し、文字の成り立ちとしては全く違います。
 「涙」は、「さんずい」と「戻」から成り立つ形声文字です。
 現代日本語では少し発音が違ってしまっていますが、元々は、「戻(レイ)」は、「涙(ルイ)」の発音を示す為に用いられた記号でした。
 これに対して、「泪」の方は、「目」から流れる「水」を意味する会意文字(会意<かいい>とは、漢字の造字法である六書りくしょ>の一つ。既成の象形文字又は指事文字<筆画の位置関係により抽象的概念を表すもの>を組み合わせる事。会意によって作られた漢字を会意文字と言う。例えば、「休」は「人」と「木」によって構成され、人が木に寄りかかって休む事から「やすむ」の意味を表す字として作られたとされる。)です。
 このせいでしょうか。
 「涙」と「泪」だと、具体的な「なみだ」のイメージを喚起する力は、「泪」の方が強い様な気がします。
 安土桃山時代の茶人・千利休が、豊臣秀吉から切腹を命じられた時、最期に臨んで弟子の古田織部(ふるたおりべ)http://blog-imgs-42-origin.fc2.com/y/o/k/yokimangamotomu/IMG_0662.jpgに渡した茶杓(ちゃしゃく。茶さじの一種)が今に伝わっていますが、この茶杓の名前が「泪」です。
 これを「涙」と書くと、ちょっとイメージが違ってしまいそうな気がします。
 さて、残るは「涕」ですが、これは音読みがテイで、「涙」とは違う事から分かる様に、「涙」「泪」とは別の言葉を表す漢字です。
 意味としてはやはり「なみだ」なのですが、私達の日常の言語生活では、余り用いられる事がありません。
 中国の唐の詩人・杜甫(とほ)の晩年の名作、「岳陽楼に登る」(この句は杜甫が晩年に念願であった洞庭湖http://www.lbm.go.jp/publish/kawara/img/kawa9-6.gifを訪れた時に詠まれたもの。家族や友人から便りが全く来なくなった、故郷に帰りたいのだけどその途中の関山では未だ内乱の戦いが続いており帰る事が出来ずに涙が出て来ると言う記述に杜甫の孤独さが現れている)の一句、「軒に憑(よ)りて涕泗(ていし)流る」です。
 ここで詩人は、我が身の衰えと世の中の乱れを思って涙しているのですが
「涕」は目から出る涙、
「泗」は鼻を通って出てくる涙、つまり泣きながら流す鼻水の事だそうです。
 「泣きながら流す鼻水」を表す漢字があると言う事実は、漢字の世界は奥深いと、改めて感じさせてくれます。