こんにちわ、あんこです。
キャンプから帰ってきて何日か経ってますが報告です。
写真は載せられなくてすみません。
自然いっぱいの中で素敵な2日半を過ごしました。
今回のキャンプでは私自身を整えるべく、
残りの2013年を過ごすための、そのスタートダッシュとなるものでした。
今まで自分が握っていたもの、自分が固執していたものを
主の御前に明るみにして、ただ主に依り頼んでいこうということを握って帰ってきました。
その中で示されたことの中心となることは、
自分に対する裁きの心と、それに起因する傷でした。
一般的に、家庭内では第一子以降は扱いがぞんざいになっていくようです。
この記事をご覧になっている方の中で
お子さんをお持ちの方はなんとなくわかると思うのですが、
扱いがわかってくるからだんだんとそうなっていくみたいですね。
私は末っ子なのですが、今回のキャンプを通して私が示されたのは、
その環境の中で、私は深く傷を負っていたということでした。
それ故に、両親に、また、新しく与えられる人間関係の中で、
完璧な愛を求めるようになっていました。
また、必要とされること、認めてもらえることに対して
とても敏感になっていました。
主がいつだって私たちに変わらぬ完璧な愛を
注いでくださっているということは、
洗礼を受けてからずっと変わらずに「アーメン!」という思いだったのですが、
そのような”事実”が存在するというふうにしか
受け取っていませんでした。
私自身も等しくそれを受けていることを否定していたのです。
ゆえに、誰かに認めてもらえるように完璧主義になり、
主から与えられていた素晴らしい賜物を上手く利用していました。
完璧であることをひたすらにめざし、失敗を常に弾劾していました。
そうして自分を許すことすらできなくなっていました。
でも、私のような罪深いものが主の前に赦されるように、
イエス様が十字架にかかられ、復活されたのです。
「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ(イザヤ53:5 JA1955)」
この御言葉が心に浮かんだ時に、
イエス様は本当に私を愛され、私の罪が赦されるために
十字架にかかったのだということを心から受け取りました。
主が赦されるというのに、自分が自分を許さないのは、
とんでもない傲慢の罪であること、また、十字架を否定していることも
心の底から思わされました。
キャンプから帰ってきたこれからの日常が本番ですが、
今は暗闇に引っ張られる自我と絶賛格闘中です。
主の御前に喜び勇んで生活するために、
自分を赦し、主の愛を受け取り、主とともに生きていくことを
選び取っていくときに、やはりそれを暗闇は嫌がるんだなぁと思いました。
いつものように自分を自分の秤で量ろうとするときに、
心がそれを辞めろと叫ぶようになりました。
それと同時に自分を弾劾しようと激しく燃え立つ心もあります。
弾劾する心を捨てるために主の前に心を注いで、
主とともに歩む人生を選びとっていこうと思いました。
少し長くなりました。
これからバイトなので今日はこれで。
それでは次の更新のときにお会いしましょう。
草々不一
「私の助けはどこから来るのか」
その嘆きに応えてくれる、その力強い声がある。
その方はいつも私と、あなたと共にあり、歩むべき道を教えて下さる。
あなたが倒れそうなとき、くじけそうなとき、
その方はあなたの杖となり、あなたの足となる。
躓き、倒れたときはあなたを背負い、あなたを慰め、励ましてくれる。
その大いなる愛は、いつでもあなたの傍にある。
決して届かない物ではなく、いつでもあなたのすぐそばにある。
山より高く、海よりも深く広いその大きな愛が、あなたを生かしている。
あなたは必ず出会うだろう。その長い生涯、計画されたものは素晴らしいのだから。
春宮 一樹
その嘆きに応えてくれる、その力強い声がある。
その方はいつも私と、あなたと共にあり、歩むべき道を教えて下さる。
あなたが倒れそうなとき、くじけそうなとき、
その方はあなたの杖となり、あなたの足となる。
躓き、倒れたときはあなたを背負い、あなたを慰め、励ましてくれる。
その大いなる愛は、いつでもあなたの傍にある。
決して届かない物ではなく、いつでもあなたのすぐそばにある。
山より高く、海よりも深く広いその大きな愛が、あなたを生かしている。
あなたは必ず出会うだろう。その長い生涯、計画されたものは素晴らしいのだから。
春宮 一樹



