正月の立志『苦言を迎えよ』 | バトーさんのから~いブログ

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ということで皆しゃまビックリマーク

いかが新年をお迎えでごんすかはてなマーク

なんか今年の冬は寒いですねぇ。

夜のジョギングも、0度近くまで冷え込んでいる時には、やらないようにしています。

雪中行軍じゃあるまいし、これからシベリア出兵を控えているわけでもありませんので、ムリはしないようにしています。

でも、この寒気の中、全力で走っている人、けっこう見かけます。

走ることは、容易に中毒になりやすいようで、極端な例では、内臓機能に障害がでるほどに走り込んでも、まだ走りたい衝動が治まらないようになってしまうこともあるんだとか。

また、パチンコやスロットなんかにのめり込んで中毒にまでなってしまうと、脳の形に異常が出るんだそうです。

最近それがわかったと、医者がテレビでしゃべってましたけど、人はいとも簡単に中毒にかかってしまう生き物なのですな。

歩きスマホだって、明らかな中毒症状。

だから、歩きスマホを止めましょうと呼び掛けるのではなく、あなたは、こういう中毒状態ですということを、ハッキリと教えてやった方がいいのでは。





それがあると落ち着くものって、人はなにかしらもっているものですよね。

何かのアイテムだったり、ガジェットだったり、スイーツだったり、特定の人とのコミュニケーションだったり、自分だけの自然の風景だったり、スポーツだったり。

それを、何か一つに特化してしまうと、何かしら恐ろしいところに行きつくような気がします。

自分には、これしかないと思い込んでしまったりすると、人は容易に“他”を排除しようとするようになる。

心理的な自己防衛の一種なんでしょうな。

人間、何でも幅広く、つき合ったり、関わったり、のめり込んだり。

それにはまず、ズケズケとものを言ってくれる人が回りにいるというのが、一番ありがたい。

しかも、こっちが“ハッ”と悟れるようなことを言ってくれる人は、宝物ですね。

的外れなことを、ズケズケと言う人はたくさんいるんですよ。アホかこいつはと心配になる様な事を言い出す人っていますよね。

しかし、そうそう都合よく人間関係が機能するわけもないですからね。

ま、そこで、この元旦にあたり、この一年の指針として私が心に決めたことを申し上げてみたいのですが、それは“苦言を迎えよ”ということ

年齢を重ね、経験が豊富になってくると、自然、人間は頑固になります。

こうなってしまってから、人様に褒められるようなことがあると、もうだめですね。

私が建築屋で安全管理者をやっている時に、こういうことがあった。

当時80歳を超えた会長が、経費節減のため、運転手を辞めさせて、自分で会社まで専用車を運転してくるようになった。

その会長は、生来慎重な人で、警視庁交通部がやっている、高齢者向けの運転技能講習を受けに行き、通勤に耐えうるほどの運転技量があるものか、チェックしてもらったのだ。

そこで、試験官は、会長の運転技量を絶賛したのだそうだ。

とてもお歳を感じさせない、見事な技量ですよ。どうぞ安全に運転をお続けください。とかなんとか。

これに気を良くした会長は、あるとき若い社員を自分の専用車に乗せて、現場の近くまで送って行ったことがあった。

その社員は、会長の運転が、あまりにも乱暴で適当で、ナニが縮み上がって口から出るかと思うほどの恐怖体験を味わった。

そして翌日、私のところにスッ飛んで来たのだ。

『バトーさんビックリマークありゃまともじゃないですよビックリマークあんな運転してたら、いつか人を殺しますよビックリマーク車両感覚だって、うまくすり抜けてるって感じじゃなく、たまたまぶつからなかったって感じですよビックリマークホント危ないですから、止めさせた方がいいですよ。』

すぐさま私は、会長と直談判し、運転手を使ってくれるように頼みこんだ。

『何を言ってるんだねバトー君キミは。いいかね、ボクの運転は警視庁交通部の“お墨付き”なんだよ。交通警官の中から指導員として選ばれた警官がだね。ボクの試験官として隣の席に座って、ボクの運転をつぶさに点検をしたんだよ。その上で、年齢を感じさせないほどに、機敏で的確ですねと、そう言ったんだよ。運転している時にはもちろんのこと、コースを回り終えて、講評してくれている時にもだね、ボクの運転のどこがどうよかったかを、ひとつひとつ挙げて指摘してくれたんだよ。そういう評価をだね、警視庁交通部が下しているのにだね、キミはなにかね。何を見てどう感じたのかは知らんが、交通警官以上の評価が自分に出来るとでも言うのかね。だいたいキミはだね(以下略)』

誰でも評価されることはウレシイですし、励みにもなります。

しかしね、ある程度年齢がいってからの褒め言葉というのは、毒にしかならない。

褒められたとか、いい評価をもらったということで、その人間の“時”が止まってしまうんですよ。

褒められた“事”いい評価をもらった“瞬間”に、いつまでも浸っていたいと人は考えるのです。

こうなっていしまうと、人間は自力で前に進めなくなってしまう。

妖魔の迷宮に誘い込まれてしまったかのよう。

竜宮城で接待されている最中の、浦島太郎のようになってしまう。

どんなに玉手箱を手渡されない内に、竜宮城を脱出させようとしても、聞かなくなってしまうのだ。

だから、旧帝国陸軍の将校は、自分の部下に勲章が贈られることを極端に嫌ったのだ。

勲章をもらった瞬間、上司である自分の言うことを聞かなくなってしまうからだ。

それが、天皇からのものともなれば、将官の言うことさえ聞かなくなるんだとか。

まず例外は無いそうだ。

だから『ああ、あいつは00歳の時に勲章もらったからな。』という話しがでると、そこから何の進歩も無いのだなと自動的に思われてしまうそうだ。

だからね、このブログの読者さんだけは、自分を褒めそやす人に出会ったなら、こいつは妖魔だと思わなけりゃだめです。

だからと言って『出たな妖怪ビックリマーク』と、口に出して言わないでください。

『いやバトーさんのブログにそう書いてあったから。』とか、ご容赦願います。

このブログは転載フリーですが、苦情は受け付けてません。何分胃腸が弱いものですから。


その点、己の志に生きている人間というのは、ホント強い。


他人に褒められることで一喜一憂することが無いからです。


老子の言葉ですが『学する者は日に日に益し、道するものは日に日に損す。損して損して無為となす。無為にして成さざる物なし。』とあります。

最初の“学”とは、学問のみならず、現代なら“ビジネス”とか“役職”と置き換えてもいいでしょう。

ようするに“利”に走る人、“立場”で人を動かしたり評価したりする人ということです。

自由主義経済では、当然こういう人たちが、組織の上の方にたっていくことになります。

一方で、道に生きる人、志に生きる人というのは、損し続けます。

それもハンパ無く、スッテンテンになるまで追いつめられます。

そうして、この世の価値ある物を全て失った時に、人は真の意味で自由になり、恐れるものは何も無くなるのだよということです。

しかし我々は、日に日に益して行かなかったら、会社がつぶれます。家族や社員を食わせていくことができません。

老子の時代には、道するだけで十分でしたし、日本の平安時代だって、日に日に益することなんんて重きを成すことなく、思索や創作が評価される時代でした。

それに比べて、現代は実に複雑です。

だから、学するだけではダメだし、道するだけではダメだと考えましょう。

日に日に益することだけを考えていたなら、つまり道を忘れて無為となることが出来ない、浦島太郎のような人間になってしまったら、“益”を失った瞬間に、スッカスカの何もない人間になってしまうんですよ。

だから、いついかなる時にも、無為となれる自分の境地をつねに保っていなければいけません。

はい、そこで、さっきの話に戻ります。

≪苦言を迎えよ≫ということです。

自分を糺(ただ)されることを良しとし、自分を否定されることを恐れず直視できることが常態であるなら、その人は、いかなる自分の環境をも、喜びと幸せと感じることができる。

これこそ、人生の覇者ではありませんかはてなマーク

さて、それでは、どうしたら≪苦言を迎えよ≫とばかりに堂々としていられるのでしょうかはてなマーク

それは、一言で言って、揺るぎ無い志を持って、日々を送っているかどうか。それしかありません。

しかしそこは人間の事です。相田みつをに言われなくても人間だもの。

腹の立つこともあれば、日和見に逃げることもある。

志があるということは、腹が立たないということではなく、ひよらないということでもないのです。

腹を立てて道を外れても、日和見で道を外れても、自分が戻るべき道しるべが常に見えている。

それが、志があるということなのです。

当然、人に褒められて我を忘れても、忘れっぱなしではない。こういう状態であることです。

竜宮城で、鯛やヒラメと飲めや歌えやドンチャンやっていても、どこか志を持った心に淋しさが浮かんできてしまう。

三国志の英雄、劉備玄徳は、若い時に遠征先で知り合った、美貌の女性と相思相愛になります。

義兄弟たちは、縁を祝福しようとしますが、劉備玄徳は断ります。

『志に生きる人間にとって、若く美しい女性は路傍の花だ。一時(いっとき)足を止めて心休まればそれでよい。』と言って兵をまとめて出立してしまうのです。

いやそりゃ人それぞれですから、ドンチャンやろうが異性といちゃつこうが自由なんですよ。モチロン。

しかしそれが、志ある自分から見たら、我を忘れた自分であり、志ある己の心に淋しさが浮かんでくるだろうかということです。

大事なことは、他人に言われなくても、このことを認識できるかどうかです。

他人から、『そんなことして、己の心に淋しさを感じることはないのか?』と問われたって、志が無ければ、チンともカンとも感じません。

よろしいですかはてなマーク

元来、苦言というものは、志をもった人間にしか効かないものなのです。

そうでなきゃ『また説教が始まったか。。。』これで終りでしょはてなマーク

だからこそ、私が若い後輩たちに、口を酸っぱくして言い続けているのは、まさにこの点なのです。

この点を一番明確に教えているのが、王陽明です。

志とは思うものではなく、考えるものでもない。

志を立てるとは、紙に書くものでもなく人に語って聞かせるものでもない。

己の生きざまにあふれるように出てくるものでなければならない。

寝ても覚めても志を立てよ。

いやそれでも足りない、道を歩くとき、踏みしめるその一歩一歩に、志を立てよ。

吸う生き吐く息にも志を立てよ。






はてなマーク王陽明さんが誰かってはてなマーク

お嫁サンバを歌った人はてなマーク







ということなんですよ。要するに若い時というのは、これくらいに考えないと立志というのは到底かなわないものなのです。

これだけで、まず読む本が違ってきます。

王陽明さんの息吹に触れたければ『伝習録』を読みなさい。現代語訳がAmazonでも出ています。

そうすると、目つき顔つきも変わってきて、つき合う人間関係まで変わってくるものです。

当然、その後の人生も違ったものになっていきます。

こうした生き方を30歳までに確立できるかどうかですね。

孔子も三十にして立つと言ってます。






一番困るのが、一流大学出で生半可な成功体験のある人。

こういう人は、大概ガンコです。

若い時の成功体験は、自信にはなっても、揺るぎ無い志にはならないんです。

トライ&エラーを多くの仲間と乗り越えてきたとか、大学のサークル活動のリーダーで、人間関係に苦しみ抜いてきたような人、こういう人たちは、ホント話が早い。

バトーさん要するにこういうことですね。はいその通り。

こんな感じです。








ということで、正月とは正す月なので、志についてひとくさり。

皆さんも是非、正月を機会として。ご自身と向き合ってみてはいかがでしょうか。

はい、今年の一発目はこんなところで。

では、お別れの曲です。