ひょんなことから87歳になる母とパリへ行くことになった。詳しい事情
はおいおい説明するとして、出発前夜からの様子を日記風に書き留めるこ
とから始めようと思う。
10月13日(月)曇りのち雨
台風が近づいている。明日の出発がものすごく心配だが、今は羽田に着
く母を迎えに行くことだけを考えよう。北海道から東京へANAでやって来
る。千歳12:30発で到着は14:05。母を迎えに空港まで行くのは全くの初
めて。80歳の時に脳出血で倒れる前まではスイスイと一人で東京のわが家
へ来ていた。だが妹の所で5年前にあった結婚式には、北海道に住む姉が
付き添った。病後7年が過ぎ、やっと日常生活に支障が無くなり、軽口も
叩くようになった母。脳がかなり回復してきたんだろう。
迎えに行くには渋谷からの方が少し早い。だが、私はわざわざ明日の予
行練習のために吉祥寺からリムジンに乗った。成田へは乗換が無いこと。
それが最優先。なるべくシンプルに、シンプルに。その方が楽。連れて歩
く私が楽であれば、母をサポートするのにも余裕が出来る。無理は私自身
も出来ない。なにせ60歳以上は高齢者なんだそうだから。
母の住む町は千歳から車で50分程度の所だ。空港までは駅前のバスで1
本なので、あまり心配はしていなかった。万が一忘れたとしても人に聞い
てバス停まで辿り着くことは難しくないだろう。それでも母が間違いなく
バスに乗れるよう、かなり前から「乗るのは駅前からだよ。バスの時間は
送った封筒に書いてあるからね。」とクドクド電話している。
その封筒とは。A4サイズの茶封筒の中に支払済みのANAの領収書とeチ
ケットをプリントを入れた物。表には「ANAの方へ 中にeチケットをプリ
ントしたものが入っています。支払は済んでいます。チェックインをお願
いします。高齢のため、搭乗口までの付き添いを宜しくお願いします。」
と書いたメモを貼った。ついでに私の家の電話番号を大きく書いた紙とテ
レフォンカードも貼りつけた。母は携帯電話が使えない。空港に着いたら、
とにかくANAの人を探して封筒を渡してと言ってあった。もちろん、ANAへ
私から連絡するのも忘れなかった。
***** 母が自分でやらなければならないこと *****
①千歳へ行くバスに乗る ②空港でANAの人を見つける
私がこの封筒を送った後で、事態が急変。姉夫婦が空港まで送ってくれ
ることになったのだ。なんでも当日は義兄の仕事が休みであることが分か
り、空港まで車で送ってくれるんだそう。母は一人で空港まで行けると言
ってはいたが、正直なところホッとした。千歳空港の受付カウンターは2
階にあり、そこへ行くまでにお土産屋が多く集まっているブースもある。
うっかり迷い込んだら少しやっかい。勿論、誰に聞いてもANAの出発カウ
ンターを教えてはくれるだろうけれど。
やや不安気味だった母も嬉しいみたいだった。旅行から戻った時の帰り
は飛行機の到着出口の真ん前にバスの切符売り場があり、チケットを買っ
たら町まで行くバス停で待つだけ。多分、母はこの程度はやりこなすだろ
う。何しろ死んだ弟が札幌の病院に入院していた3年前は、ほぼ毎日一人
で札幌へ行ったのだから。
羽田に着いた頃、パラパラと雨が降って来た。傘を二人分持ってきて良
かった。そして姉のおかげで、母は無事に羽田に着いた。母と合流し、再
び帰りのリムジンに乗る。今度はやや早く着く渋谷行に。なるべく時間と
体力を母も私も温存しておきたい。夕食も娘と相談して外食することにな
っている。母はお昼を飛行機の中で姉が持たせた稲荷ずしを食べたと、言
った。
渋谷の駅に着き、母は「変わったねぇ。すっかり変わって分からなくな
った。」を繰り返す。確かに井の頭線の渋谷駅は数年前に様変わりした。
と言っても、元々の構造は変わっていない。それを母は覚えていたのか「
このなんとなく坂になっている通路は同じだって、思うんだけど。」と言
う。そう、渋谷の駅はJR方向に歩くと少しだけ下っている。15年ぐらい前
は年に何回も東京へ来ていた母。バリバリ働いていた頃だ。父が死んだの
が12年前。自分が脳出血で倒れて7年。約半年の入院から家に帰った頃は
全く頼りなかった。記憶障害が今よりも激しく、時々変な事を言ったりや
ったりしていた。だが、徐々に回復した。今でも記憶障害はあるけれど、
日常生活に支障は無い。