今日の作り置きは3品+‪α。











レタス、人参、玉ねぎ、ブロッコリーのサラダ。










大根、カイワレ、たこのピリ辛和え。










キャベツ、人参、玉ねぎ、かぶ、ウインナーのポトフ風コンソメ煮。









かぶの葉、人参、椎茸、鯖缶のからしマヨ。

人参の使用率高め(笑)









母が人参が好きだった。

好きだったは正確ではないな。

母は偏食の強い人だった。

肉類は赤身の牛肉をほんの少ししか食べないし、魚に至っては目ざししか食べなかった。

寿司は食べたけれど、それも海老、アナゴ限定。

鰻はダメでアナゴしか食べないという拘り(笑)

野菜は好んだけれど変わった野菜は食べない。

人参が好きだった。

好きだったのかな。

身体にいいから食べていると言っていたので好きじゃなかったのかも(笑)

それでも人参はホントよく食べていた。

食べる事にあまり興味がなく、料理するのも好きじゃないというのに、わたしと弟が乳児の頃には、わたしたちの離乳食を一生懸命作ってくれたらしい。

魚や肉を直接手で触れなかったほどの母。

60数年前には、便利な離乳食が簡単に手に入る時代ではなかったので、母は手袋をはめて(笑)レバーや魚を裏ごししてわたしたちに食べさせたとの事。

もちろん、自分は食べないで(笑)

そのおかげで、わたしは何一つ偏食のない、出されたものは頂きますの精神(笑)

食するものは全て生命。

その生命、無駄にすること無く頂く。

もっともこの頃は歳をいってしまって量を食べらないので、残さないよう注意して食べなくてはならない。

目ざしで想いだした母の想いで。

母は魚の中で目ざしは食べた。

魚…だよね?(笑)

でもその目ざしも頭から内臓部分と尻尾の方は食べなくて、真ん中のほんのちょっとの部分しか食べない。

母が目ざしを食べる時は、母の食べない頭と尻尾の部分は、母からわたしのお皿に乗せられた(笑)

それを食べるのが何でも食べるわたしのお役目だった(笑)

ソフトクリーム。

わたしと弟の数少ない同じ想いで。

わたしは中学に入ってすぐに病気になり、ずっと入退院を繰り返し、中学を卒業してすぐに家を出たので、弟との想いでというのは、弟が小学5年の時で止まっている。

その弟との数少ない一致する想いでがソフトクリーム。

母とわたしと弟の三人で出かけた時、お金に少し余裕があると、母はわたしたちにソフトクリームを買ってくれた。

父親は弟が産まれる前から一緒に暮らしていなかったので、わたしの記憶にはない。

何処へ行った幼い時の記憶にも父親は居らず、いつも母と、そして祖母。

まだ祖父母宅へ戻る前の頃。

今想えばとんでもなく貧乏だったのだと想う。

それでもたまに出かけた時、ホントたまに母はわたしたちにソフトクリームを買ってくれた。

でもそのソフトクリーム。

あの三角のてっぺんから食べたことは一度もなく(笑)

母がわたしと弟のソフトクリームの先を、まず一口食べてから、わたしたちは食べていた。

その頃はそれが当たり前だと想っていた。

三つのソフトクリームを買うだけのお金がなかった事と、母はたくさん食べられないので一口だけ先に食べたのだと、後からの笑い話(笑)

大人になって弟が義妹と付き合い始めた頃、ソフトクリームを買って渡した義妹に『先に食べていいのか』と確認したという笑い話(笑)

そう全て笑い話。

今の時代、親ガチャなんて言葉もある。

自分の想う通りに生きる事を望めない親の元に産まれた事を嘆く言葉なのか。

自分の産まれたい時代や国、地域、性別に産まれた人なんて居ないはず。

スタートが違うのは、そりゃハンディにもなるかもしれない。

でもそのスタートから始めなくてはいけないのだから受け容れた方が、その後楽だと想うのにな。

わたしは親ガチャならぬ、母が子ガチャ大ハズレだと想う。

せっかく産まれてきても病気ばかり繰り返し、オマケに捻くれ曲がった性格の娘は大ハズレだったろう(笑)

唯一は、弟と添うてくれた義妹が母ととても気が合い、充分、娘として居てくれた事。

それだけが救いだ。

母の事を想いだすと、今も涙が止まらなくなる。

でも最期は、弟と義妹の傍で逝けたのだから、きっと幸せだったのだと想いたい。

相も変わらず、支離滅裂(笑)