好きなことを好きなときに好きな人とのブログ -2ページ目

日本の官僚は自分たちのことを、難しい公務員試験に合格し、天下り含めて一生食べていくのに困らない「身分」を手にしていると思い込んでいます。そう喝破したのは自身も通産官僚出身の経済評論家、堺屋太一氏です。同じように僕には、日本のサラリーマン、とくに大企業に勤める人ほど、その会社で働くことを身分と信じて疑わない人が少なくないように思えます。

海外の管理者階級、いわゆるホワイトカラーたちは、自分たちが会社の一部とは、絶対に考えていません。自らは独立した事業者で、会社と対等の契約を結んでいるという認識です。会社から受け取る報酬は、あくまで自分の技術に対する評価で、会社に所属しているから給料が貰えるとは、微塵も思っていません。

海外のビジネスパーソンに、「どういう仕事をしていますか」と尋ねると、たいていの人は「広報をしています」「経理部長です」と、自分の仕事や職務を答えます。

ところが、これが日本だと「○○社に勤めています」と、会社名が出てしまいます。要するに、「就職」ではなく「就社」という感覚なのだと思います。

そうした社会だから、学生が大企業志向になるのも無理はないかもしれません。社名を言ったとき、無名の会社よりも誰もが知っている名前のほうが箔がつくし、何かと都合もいい。しかし、あくまで「一部上場企業」という神通力が通じるのは、相手が同じ価値観をもった日本だけです。

これからの時代は、個人として競争に勝ち抜いていかなければ、いつ会社がなくなり、クビになるかわかりません。そうなるとサラリーマンほど不安定な立場はありません。自分の実力を棚に上げて会社に寄りかかっていたら、いつまで経っても経済的自立はできません。そろそろ、この当たり前の事実を自覚すべきではないでしょうか。

「資本主義の精神」を忘れていくなかで、この国はいつの間にか、お金は稼ぐものではなく、貰うもの、という意識が蔓延してしまいました。

その発想の典型が、儲かっている企業や富裕層に課税すればいい、という議論でしょう。

そもそも、いまの法人税率や所得税率を見れば、この国はお金のある人が、お金のない人を食べさせる社会になっていると言っていいです。そのわりに、トヨタ自動車やキャノンなど、輸出で外貨を稼いでたくさん税金を収めてきた企業に対して、国家も、国民も、感謝が足りないのではないでしょうか。

最近では、デフレ下で多くの企業が業績を悪化させるなか、頑張って利益を上げているところがあると、「あの企業は悪いことをやっているに違いない」と後ろ指をさす風潮さえあります。まるで、「儲けることが悪である」かのように。

利益を上げるのは当然のことです。反対に利益を出せない企業に存在価値はないです。しかし、他国に比べて圧倒的に高い税率のなかで、企業が利益を出すのは簡単ではありません。

創意工夫を凝らして商品やサービスの企画を練り、ギリギリまでコストを削って製造し、緻密な販売戦略を立てるなどの手を打って、仲間と共に必死で努力し、それらが実を結んで、ようやく利益が出ます。

富裕層への課税にしても、平均的な働き方をしていたら、人並みの収入しか手にすることはできません。人が寝ているときにも働いて、過酷な競争に勝ち抜いたからこそ、多くの富裕層は多額の報酬を得ることができています。

そうしたプロセスをまったく無視し、あそこにお金があるからこちらにもってきて、不足分を穴埋めしよう、足りない人に分けて凹凸を均そうとの発想は、稼ぐ力のある企業や個人を日本から追い出してしまいます。この国にいちばん必要な競争力の源泉が、いたずらに失われてしまいかねません。

稼ぐ力も、稼がない人も一様に食べられる社会からは、確実に活力が失われます。ほんとうなら競争に勝ってようやく得られる報酬が、口を開けて待っていれば手に入るのですから。そうしたら、真っ当な努力をするのが馬鹿々々しいと考える人が増えるに決まっています。

「働かざるもの食うべからず」という言葉はどこに行ったのでしょうか。モラルハザードが起こり、情熱を込めて働かず、その日暮らしの人たちばかりが大手を振って歩く国に日本がなって、本当にいいのでしょうか。

この国は世界第2位の経済大国の座は中国に奪われ、国家経済はGDPの2倍の累積債務を抱えて火の車です。日本を代表する企業だった大手家電メーカーは、巨額の赤字を垂れ流します。

国内にいても新聞を読んでいれば、そうした情報はいくらでも目に入ってきます。

ですが、大半の人にとってそれは、数あるニュースの項目の1つに過ぎません。アイドルグループの、“総選挙”で誰が勝ったか、負けたという話題と同じように消費され、そのニュースが自分たちの生活にどうかかわっているか、真剣に考える人たちがあまりに少ないです。

「茹でガエル現象」という言葉があります。いきなり熱湯に投げ込まれたカエルは熱くて飛び出しますが、徐々に水を温めていくと、変化に気づかずに、そのうちの茹で上がって死んでしまいます。

人間は、すぐに近くまで危機が迫っていても、実際に痛みを感じないと、それを危機として認識できません。その欠陥を補うために知性はありますが、そうした知性を働かせることが日本人はきわめて苦手なのではないでしょうか。

太平洋戦争の敗戦も、バブル期以降の日本の衰退も、その本質は似ているように思えます。目の前にある現実を視ないで、過去の成功体験にとらわれて変化を嫌います。論理よりも情緒を優先し、観念論に走るといった特性は、時に取り返しのつかない結果を招きます。

軍部の指導者が犯した許しがたい「失敗」は、若者に特攻を命じたことです。もはや日本の配線は明らかだった戦争末期まで、それは続けられました。肉弾をもってすれば、米軍の圧倒的な物量に抗せる、彼我の技術力の差を覆すことができるといった、まさに現実を直視しない根拠のない観念論で、あたら有為の若者を大勢死なせてしまったのです。

しかも司令官、指揮官クラスのエリートは「自分もあとから行く」と言っておきながら、敗戦が決まると責任をとることもないまま、今度は日本復興のために尽力する、と180度、態度を変えました。全員がそうだったわけではないですが、特攻については黙して語らずという態度をとった者が多かったです。

もちろん困難にあたって自らの命を捧げた若者たちの純真さはには、胸を打たれます。彼らのことを日本人は永遠に忘れてはなりません。しかし、特攻という「統率の外道」をあえて命じておきながら、責任をとらなかったかつての陸海軍の司令官、指揮官たちの卑劣さは許しがたいです。

こうした無責任さを日本人特有の悪弊として考えたくはないですが、発言をコロコロ変えて平然としている現代の政治家たちの姿を見ていると、太平洋戦争の「失敗」に何も学んでいないのではないかと言いたくなります。

いま必要なのは現実を直視することです。