松野町では河後森城の植生・景観調査を年四回、定期的に行い、それを河後森城の整備活用に活かしてきた。
今回も一つには城周辺の眺望、郭間の透視をよりよくするため、用心しつつ少しづつの除木計画推進のため、公募で参加者を募って行った。20名弱が参加した。落葉した冬はよく見えても、夏になると葉が生い茂りさっぱりである。
景観調査はこうした眺望や見え歴史理解の目的もあるが、遺跡を破壊する障害木、危険木の除去、裸地の強化などの目的もある。最近の異常豪雨などから史跡を護るために、こうした日頃からの調査と観察は不可欠な保護活動だ。壊れてバタバタではイタチごっこの繰り返しだよね。
この調査は植生調査も兼ねていて、それを担当したTきよしさんは城内に残る植生をA、食べる(クスリ、毒を含む)植生’(ワラビ、ゼンマイ、くさび、ユキノシタ・・・ニワトコ)、B,見る植生(ヤマザクラ、オンツツジ、スミレ・・)、C,使う植生(タケ、ウツギ、サルトリイバラ・・)に分類て発表。必ずしも、古今は同じではないことは承知の介の上であるが、中世のこの城居住者が、どのようにして灯明皿の芯を手に入れし、食糧を調達し、儀式の景観を確保したのか、復元または創造するに具体性を提供してくれるのである。
史跡は言うまでもなく、人間活動の痕跡である。その痕跡の歴史性にその史跡の本質的価値がある。したがって、その整備や活用はこの観点から行われる部べきで、、それを通して歴史理解、地域理解を深めてゆかねばならない。この意味で松野町はぶれることなく、本来の目的を深めていると言えよう。
でもねときどき、誤解も甚だしい人間がいる。そのとちが史跡であることも忘れてか(知ってても)、そこに生える植物のみを唯一無二のように神聖化し、それ以外は目に入らず、「ミドリ、ミドリ」と言って、史跡内植物の植物園化を試みようとする。史跡の本質と関係ない別の目的物を造ろうとする。
城に見られるケースであるが、城が史跡(公共物として認定されたことを意味する)として保護され、ところがそのまま放置されてきたので、植物は生え放題。それが、危険木、障害木となって史跡を壊す。いわば城という植物の生みの親を、その子である植物が破壊するのである。
一番大事なのは城であろう。その上で植物の適正管理を行い、本質に沿っての快適な利活用の場とし、城と植物の共存を測るべきであろう。
個人の趣味のために別物を造っちゃいかんよ。
紫蘇の穂が出始めました。秋ですね。