主山城から昌寧の古墳へとバスは走った。
昌寧は校洞古墳群で、昔からよく知られた古墳群である。
戦前から日本研究者によって再々発掘されてきた。韓国ではその一つを再発掘している。
1917-1919年に朝鮮総督府の谷井(やつい)済
昌寧校洞古墳群
一氏が調査したなかから校洞7号墳を取り上げて行っている。
埋葬施設はもぬけの殻であるので、高さ8mにおよぶマウンドの構築法を追求していた。
石室を覆う層を最下層として、その上は三段に分れて土盛りがなされているという。
注意を引くのはその土盛りがよくあるように水平層を積み上げた物ではなく、円形?土饅頭を積み上げて構築されていることである。土饅頭と土饅頭との谷間には礫が充填されている。
墳丘封土を土饅頭による方法は列島でも吉野ヶ里の弥生中期にすでにみられ、前期古墳の墳丘構築にもそれによっている例がある。
ただし校洞7号墳の場合、墳丘の高さが8mもあるので、それは圧巻であった。