以前に予告しましたが、同上のシンポが2002.1.28に同町近永公民館で行われた。
鬼北町の南接する高知県西部、幡多地域の四万十市、北に位置する西予市宇和町、海を隔てて西に位置する大分平野、南予に影響を与える松山平野の土器を集め、寺山出土土器と比較展示した上でのシンポであった。
前半は各人の発表
鬼北町幡上敬一、西予市高木邦宏、四万十市川村慎也、大分市坪根伸也の諸氏による担当地域の土器、住居、集落などの特徴の発表のあと、シンポが行われた。
シンポは下條信行氏の司会で進められたが、課題は
①土器から見た地域相と地域間比較
②その生活基盤
であった。
四万十市、鬼北町、西予市を包括する弥生土器(中期~)は西南四国型土器という特徴的な形態や装飾をもった土器が分布し、瀬戸内一般に分布する土器とは大きくかけ離れた独自な文化圏を形成している。
それが後期になると周辺文化の影響を受けて、徐々に変化を始めるようになるが、その変化過程は一様ではなく、跛行性をもって進行する。
興野々寺山遺跡の第一期は後期の初頭から前葉の頃で、ここでの変化は刷毛の受容を特徴とする。甕にはもちろん、壷にも適応されるが、ただ形態表現に於いては伝統を固持し、変化させることはない。南の四万十市(古津賀遺跡)では、刷毛もほとんど導入せず、伝統そのままである。宇和では、伝統も維持するが刷毛をもたらした外来土器が2割もあり、外化が進行するなど、各地の地勢差に基づいて外化のスタンスに微妙な差をもっている。それは高坏、鉢などの導入においても地域差があり、南ほど受け入れない。
寺山第二期はタタキが導入される弥生終末期である。この期になると各地一応に長胴のタタキ甕を導入するが、なお在地甕も維持する。壷はいわゆる複合口縁土器となるが、寺山遺跡などこの地域南部は癖のある二次口縁を作るのに対し、宇和は通常の二次口縁が定着するなど地域差をもつ点が存在する。
この続きは明日。

