読書初めは五木寛之氏の『下山の思想』 | しもちゃんのブログ

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この著の概要は以下のようなもの。


高度経済成長時代、わき目も振らずにがむしゃらに上りに上って(登山)、登り詰めた頂上で、何が見えたか。そこには先が見えない様々な不安しかなく、それが人々を心身ともに病に追い込み、年間3万数千人の自殺者を10数年に渡って海だし続けている。


もうこんな坂の上の雲を追う人生とは決別し、用心しながら、ユックリと山を下りようではないかというもの。


そうして、来し方を振り返り、今自分がどこにいるのか、行く末に思いをやり、これからどういう人生を歩むのかに思いをやり、遠くの海、町の遠景、岩陰の花、それらを眺める心の余裕に気づきもするのだという。

これまでも時に触れたが、まさにスローな視点のことなのである。


先の見えない閉塞社会は、考古学・文化財世界の住人を、例外無く袋小路い追いやり、考古学・文化財との関係を個人の趣味や飯の種、研究の種としか捉えきれなくしている。大學人には心ない輩も多く、文化財が国民のモノと言う、社会的観点を持ち得ず、個人の趣味や遊びのために税金で飯を食わせている結果となっている。こういう輩は飯を食わせて貰っている社会に対しなんの貢献もお返しもする気はない。


しかし、心ある文化財従事者は、それらとは無縁に傷つき病める下山者に、癒しの場を、過ごし場を準備提供できるよう奮励努力している。


文化財を銭もうけの場としか位置づけなかったり、内容とは関係なく員数のみを評価したり(だからすぐ団体動員やできもしない特展を企画する)する視点は高度成長期の銭まみれ発想によるもので、そんなものとはまずは考えとして決別すべき時でしょう。


多くの人が求めているのはは同一歩調を強制する団体行動ではなく、偽らぬ歴史・自然のなかに於ける個人のスローな行動と視点による癒し、開放を可能とする世界である。美しいモノをみて、来し方、行く末に思いを馳せたいのだ。


こうした視点での文化財整備こそ最大の時代への社会への貢献ではなかろうか。公共工事とかイベントとか異なるものだ。


『下山の思想』(幻冬舎新書、740円+税)は帰省先のチッチャナ書店で求めたが、本屋の親父さんによるとこの本、毎日1~2冊は出るとのこと。松山では知らないが、安く読みやすい本でもあり、これくらいは文化財関係者も読もう。


我が家の小畑の野菜ややっと収穫できるようになった。
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左:二十日大根  右:小松菜