無心とは、何も考えずにぼんやりしていることではない「ひとつのことにとらわれない」という意味である。

剣の勝負で、敵の腕を打とうと考えると、腕ばかりに心がとらわれ、それ以外の攻めの機会を逃してしまう。敵が面を打ってくるのではないかと思えば、面を防ぐことばかりが気になり、わき腹に隙ができる。勝とうと思えば、勝つことばかりに心をとらわれ、焦りが生じる。つまり、心がとらわれると隙ができる。剣法の極意は、「精神を集中しながら、しかも心はどこにもおかないこと」だ。

我々は、日々、さまざまなことに心をとらわれて生きている。

「嫌味な上司がいるから、会社に行きたくない」

「恋人が最近冷たくなったのは、どういうことだろう」

「自分にひどい言葉を浴びせた友人が許せない」

何かひとつのことに執着しはじめると、それは知らず知らずのうちに、自分の心の中でどんどん肥大化していく。

他人から見れば「なぜそんなことにこだわるのか」と不思議に思うことでも、当人にとっては明暗を分ける重要課題のように思われてくる。

そのために、もっと大切なものが目に入らず、幸せを逃してしまう。

禅の教えでは、「ものごとをふたつに分けて考えること」、つまり相対的な見方を、心を乱すものとして戒めています。生真面目な性格の人は、何ごとにも、白か黒かという明確な結論を求めようとする。

あの人を許せるか、許せないか。

自分はあの人に好かれているか、嫌われているか。

自分はあの人よりも幸せか、不幸か。

ふたつに分けて考えると、どうしても、どちらかはっきりさせなければ気がすまず、執着心が生まれる。

職場のある同僚に対して、「あいつは、ろくに仕事もできないくせに、一流大学を出ているというだけで、俺より高い給料をもらっている。不公平だ」という不満をもっている人がいるかもしれなり。しかし、広い世の中を見渡せば、楽をして大儲けしている人など山ほどいる。


「自分の職場」という狭い狭い領域の中だけで、他人と自分を較べて、公平だ、不公平だと嘆いても仕方がない。私たち日本人は、東南アジアのスラム街で鉄くずを拾って生活している子供たちから見れば、ただ日本に生まれたというだけで、不当なほどに恵まれた暮らしをしている。

上を見ても、下を見てもキリがない。恵まれた人をうらやんで「不公平だ」と嘆く人は、逆に自分より不遇な立場の人を思いやる気持ちがありません。自分に執着してばかりいる。

私は、「無心」を心がけたい。繰り返しになるが、無心とは、頭を空っぽにすることではない。視野を広くもち、あらゆることに注意を傾けながら、しかもひとつのことに心をとらわれないということです。

嫌なことがあると、人はそのことばかり気にしてしまう。

嫌なことを排除しようと必死になって努力すればするほど、ますます「嫌なこと」に執着して、心を支配され、身動きが取れなくなる。

「この問題を解決しなければ、自分は幸せにはなれない」と考えるのは、有か無か、ふたつにひとつしかないという思い込みにしばられているからである。

「嫌なこともあるけど、ほかに楽しいこともたくさんある」と、心を解き放たなくてはならない。

雨の日に、雨が降ることに対して不満を言えば、ますます雨がうっとうしく感じる。雨が悪いのではない。雨の日がなければ、晴れの日が気分がいいと感じることもない。悪いこととよいことは、常に一対だ。

幸せの中に不幸があり、また、不幸の中に幸せがある。それぞれは独立したものではなく、すべてが絡み合い、影響し合っているの。ひとつのことにとらわれてはいけません。不幸を経験したからこそ、小さな幸せに感動できるということもある。


人生に起こったあらゆるできごとは、重大なことであると同時に、ごく小さな、とるに足らないことでもある。

仏道元禅師「正法眼蔵現成公案」より:

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり

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仏道修行者にとり、自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」である。つまり無我になりきることだ。自分をなくすということではなく、自己と他己との対立を捨て去ることだ。そうすることにより「万法がすすみて自己を修する」境地が開ける。禅宗では実践の中に悟りがある、実践そのものが悟りの姿であるといわれている。萬法すすみて自己を修証する、正しい実践体験の世界に没入するとき融通無礙の自己が実現し、自己を会得し得る。そのとき「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」である。身心脱落とは「自分が自分が」という我見我執の凝り固まった固執的概念を捨て、自他を超越することだ。身心一如という体験的世界に没入することである。


これはまさに合気道のめざすところである。若いころは「宇宙と一体」になるとか、「愛の武道」といった言葉で語られる合気道の精神性を戯言くらいに考えていたが、言葉は違っても言っていることは、これと同じだ。稽古の時は相手と対立的に行わず、相手と一体にあるような気持ちでやる。その実践の積み重ねが大切だ。

 私にとって合気道は格闘術でも護身術でもない。結果として、そうしたものとして使えることがあるかもしれないが、それが目的ではない、と考えている。人を倒すのに合気道は必要ない。人を倒すことは、もっと単純かつ簡単なことだ。人は急所に当身を一発入れられれば、その場で倒れてしまう。


 合気道は囚われない心と身体を形成するための訓練のシステムだ。武術としての合気道がめざしている境地とは、「自分がどんなに不利な状況 -例えば相手が複数いる、剣や短刀を持っている- にあっても自動的に身体が動いて、その状況をコントロールできるようになること」であると考えている。


 そして身体がそのように動くことができるようになれば、心もそのように動くのだ。なぜなら、肉体と心(精神)は別々のものではなく、同じものの両面だから。どんなに悲しいこと、つらいことに襲われても、それを受容し、心をコントロールできるようになること、それが究極的な合気道の目的だ。


 もちろん、運動として、あるいは格闘術、護身術、ストレス発散法として合気道をしたって構わない。それは人それぞれだ。だが私自身にとっての合気道は重要な修行のひとつだ。

「往く道は精進にして、忍びて終わる、悔いなし」


天台宗の僧侶で比叡山延暦寺の千日回峰行を二度行った酒井雄哉さんが高倉さんに送った言葉として知られるようになりました。


どれだけ修行しても修行が完結することはないし、報われることもない。そして、ただ耐え忍び続けて、やがて誰もが死を迎える。しかし、何も悔いることはない。私はそのように解釈しました。


厳しい修行をした酒井さんでさえ、そうおっしゃっているのです。私が多少、仏道や武道修行の真似事をしたところで執着がなくなるとか、悟りを開くといったことはありえません。ただ少しでも、そのような状態に近づくことができるように、高みを目指して自分なりに努力することが大切だと思っています。



 お寺の鐘がゴーンとなる、目を閉じ、耳をすまして音を聴く。音がどんどん小さくなる、やがて音がなくなる、しかし、無声の声を聴くと観念的に断定して、音をイメージして聴き続ける。そうすると瞬間的に心が透明なるような感覚が訪れる。そのような感覚を鐘の音がなくても、いつでも作り出せるようになれたら本物だ。


 合気道において相手と向き合った瞬間、技をかける直前にこの透明な心の状態を作る。そうすると相手に囚われることなく、自然に技が生まれてくる。千回に一回くらいはそういうことがある。



沢庵和尚「太阿記」より


<けだし兵法者は、勝負を争わず、強弱に拘ず、一歩を出でず、一歩を退かず、

敵、我を見ず、我、敵を見ず、天地未分、陰陽至らざるところに徹して、直ちに功を得べし>


江戸時代の禅僧 沢庵が兵法(武道)の究極のあり方について述べたもので、座右の銘にしている。強いとか弱いとか、味方とか敵とか、天とか地とか、光とか影といった二律背反、相対的な価値観に囚われてはならない、という点では仏道も武道も同じである。





自身も合気道家でもある内田樹は著作「修行論」のなかで武道の稽古ついて次のように述べている。


(quote)
 私たちの生活そのものが、私たちの日々の暮らしが、私たちにとっての戦場であり、舞台の本番であり、生き死にの境なのである。道場はそれに備えるためのものである。稽古は、競ったり、争ったり、恐れたり、悲しんだりすることを免れて、ただ自分の資質の開発という一事に集中することが許された特権的な時間である。道場はそれを提供するための場である。
 そこでの稽古を生活と有機的に結び付け、分かちがたい一つのものへと編み上げること。生活即稽古、稽古即生活、それが現代の武道修行者のめざす理想だと私は思っている。
(unquote)


 私は大学生のとき合気道の稽古に打ち込んだが、社会人になってからは忙しさにかまけて合気道をすることはなかった。そして左遷されて地方の支店で閑職の身となったのを機に23年ぶりに合気道の稽古を再開した。学生のときは二段を頂いたが、無級から始めた。人生はやり直しできないが、合気道はやり直しができると考えたのだ。指導者にも恵まれ、良い稽古をさせて頂いている。
 私は大学生の頃、合気道あるいは武道の稽古を内田氏が述べているようには理解できていなかったように思う。格闘術、護身術としての合気道を拡大解釈し、その実戦性のなさや、試合を行わないことに疑問を感じたりもしていた。


 しかし、今は違う。私は合気道を、形は違っても禅やヨガと同じ瞑想法であると思うようになった。武術的な動きを一心不乱に行うことで瞑想しているのだ。よく言われるが「動く禅」だ。


 では瞑想の目的は何か? 私はそれは「執着をなくす」ことであると考える。執着とはすなわち心が「対象に囚われている状態」だ。我々は財産に心を囚われ、それを得られなかったり、失ったりしたりすることを嘆いている、あるいは死や病に心を囚われ、なす術もなく恐れている。対象に心が囚われることで怒り、恐れ、悲しみ、憎しみといったマイナスの感情が生じてるのだ。仏教の「八苦」すなわち、生、老、病、死、愛別離苦(愛する者と別離)、怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会うこと)、求不得苦(求める物が得られないこと)、五蘊盛苦(人間の肉体と精神の苦しみ)は心が対象に囚われるから生ずるのだ。瞑想とは宇宙いっぱいに、伸び伸びと広がって、何ものにも囚われない心を目指して実践するものだ。


 合気道はいわば武術としての技術と瞑想が一体化した身体と心の鍛練法だ。だから格闘術でも護身術でもない。相手が手首を握ってきた。そのとき相手の手に囚われて、これを何とかしようと腕に力を入れてはならない。それはまさに心が囚われている状態である。相手の手はを感じるけれど、気にせず、伸びやかな動きで大きく捌けば相手と一体となる。その身体的な感覚は精神的な感覚に昇華するはずだ。なぜなら心身一如、心と身体は一体だからだ。


 私はこの年にして、あるいはこの年だからこそ、ようやくそのことに気づいた。死ぬまで稽古を続けたいと思う。