ハイタイ
南国沖縄のとある街で
小3双子+4歳の娘たちを育てつつ
夫婦で看護師として働いてます
先日、私が腰ヘルニアで
病院受診している最中で
大好きな叔母が旅立ちました
その後
無事に葬儀がおわりました
家族みんな後悔のないよう精一杯に
終末期の叔母を支えて
お見送りをしたため
お別れはつらいけど
みんな泣かずに清々しい顔でした
そんな叔母には
『今まで痛くてつらかったけど、やっとラクになれたね。よく耐えたよね。お疲れ様でした。今まで本当にありがとうございました』
と私は伝えました
もう、ただただ感謝でいっぱいです
そんな大好きな叔母は
実は本当の叔母ではなく
血筋的には遠い親戚になります
沖縄戦で
両親を失った叔母は
私の祖母に引き取られて
私の母たちと姉妹として育ちました
私の母とは実のいとこ関係
私が物心ついた頃には
祖母は高齢で
あまり孫と関わることが少なく
叔母が孫のように
私の面倒をみてくれました
私は小さい頃
何度も叔母の家に行ったり
一緒にプールで泳ぎに行きました
叔母は水泳大好きだった
大人になってからも
旧盆やお正月等のイベント時は
叔母の家で
手作りのごちそうをいただくことが
毎年恒例でした
特に叔母が作るサーターアンダギーは絶品♡
そんな日常が
これからもしばらく続く
と思っていたのですが・・・
昨年から
乳がんに続き、大腸がん発症し
手術や抗がん剤、放射線治療
あらゆる治療を行いました
もともと膵臓も弱く
糖尿病や高血圧の既往があったため
叔母は食事や運動などの健康管理はきちんとやっていたが、体質だったらしい
治療中に何かおこるかもしれない
と思った私は
おばさんが元気で動けるうちに
行きたいところに行ったほうがいい
高齢だから何がおきるかわからない
と母に話をして
1番仲がいい母と叔母は
行きたいところに旅行行きまくりました
そして、
今年に入ってから
再び大腸に小さな腫瘍ができて
抗がん剤治療することになったのですが
本人がつらすぎて
もう全ての治療をやめると宣言
もう86歳なので
未治療で何かおきても
もう成り行きにまかせる
ことになりました
その後も
母と生年祝の記念写真撮ったり
行きたいところに行ったり
叔母なりに楽しんで過ごし
今年8月末には
とうとう主治医から
余命3ヶ月と宣言されました
9月からは
在宅看護や訪問診療が入り
本格的に自宅療養スタート
私も毎週
叔母の家に行っては
内服の整理や薬の説明して
食べやすい食事考えたり
できる限り疑問に応えたり
息子家族も私の母も初めての在宅療養でどうしたらいいのか分からず困っていた
訪問看護では
対応できなかった
細々とした雑務をしていました
腫瘍でお腹が大きくなった叔母は
きついはずなのに
歩き回って家事したり
犬のお世話をしていました
動き回ってた叔母ですが
10月初旬から
痛みで寝込むことが増え
自力で入浴やトイレができなくなり
私はオムツ交換や陰部洗浄しつつ
その息子や母にやり方教えつつ
こまめに水分摂取や体位交換して
ナースとして学んだこと
経験したことをフル活用して
可能な範囲で
叔母の支援をしました
今、できる限りのことしないと
自分自身が後悔すると思った
最後の2週間は
痛み止めの持続投与しつつ
意識レベルもおちて
もうろうとしつつ、せん妄になって
『いたい、もう早くラクにして。』
と何度も言いつつ
急に目を覚まして
『あい、〇〇ちゃん(私)来てたの?あんた仕事いそがしいのにわざわざ遠くからきてくれてありがとね。』
と、1番つらいのに
私を気遣う場面もありました
それが、私へ遺した最期の言葉になりました
今回、私自身
身近な家族で初めて経験した
在宅の終末期療養
本人の強い希望で
なるべく自宅で過ごしてほしいけど
最期まで家族でやっていけるか
私も含めて不安だらけでした
家族がギブアップして病院で最期を迎える可能性もあったため
結果、本人は好きなように過ごして
会いたい人にたくさん会えて
家族はいっぱいやりたいことして
全力で支援したので
納得した後悔のない
最期を迎えることができました
それはいろんな偶然が重なり
ラッキーだったのだと思います
ただただ、全てに感謝です





